<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120</id><updated>2011-09-27T01:47:08.564+09:00</updated><category term='「小論理学」'/><category term='小論理学'/><category term='『小論理学』'/><title type='text'>哲学ノート (ヘーゲル「小論理学」ノート)</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/'/><link rel='hub' 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type='html'>　二三六節、二三七節&lt;br /&gt;　特になし。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二三八節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．思弁的方法の諸モメントはまず、a、有あるいは直接的なものである端初である。これは端初であるという単純な理由によって自立的である。しかし思弁的理念からみれば、概念の絶対的否定性あるいは運動として自己分割し、そして自己を自分自身の否定的なものとして定立するものは、思弁的理念の自己規定である。したがって、端初そのものにとっては抽象的な肯定とみえる有は、むしろ否定であり、措定されたものであり、媒介されたものであり、前提されたものである。しかし有は概念の否定であって、概念は、その他者のうちにありながらも、あくまで自己同一で自分自身を失わないものであるから、有はまだ概念として定立されていない概念、すなわち即自的な概念である。--だからこの有は、まだ規定されぬ、言いかえれば即自的あるいは直接的にのみ規定された概念として、普遍的なものでもある。&lt;br /&gt;　　端初は直接的な存在という意味では、直観および知覚から取られ、有限な認識の分析的方法の端初であるが、普遍という意味では、綜合的方法の端初である。しかし論理的なものは、直接的に普遍であると同時に有であり、概念によって先行的に措定されたものであると同時に、直接的に有るものでもあるから、その端初は綜合的であるとともに分析的な端初である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これはヘーゲル論理学の構造の説明である。ヘーゲルは論理学を認識論と考えているために論理の構造が認識論に特有の構造になっている。&lt;br /&gt;　認識論的な構造においては、論理学の出発点である有は定有であり、現実の個別存在、つまり直接的存在を意味している。この個別存在の直接的認識を始元として認識が深まっていく過程がヘーゲルの思弁的な論理の発展過程である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの体系では、定有の背後に概念が存在しており、定有は概念が措定したものである。有は概念が自己を否定したもの、自己を規定したものである。ただし、概念が自己を措定した最初の、したがってもっとも抽象的な、即自的な、つまり具体的な否定＝規定を持つ以前の概念である。&lt;br /&gt;　概念の規定とは思惟規定であり普遍の規定である。認識論における端緒としての有は、もっとも単純で直接的で思惟規定を持たない認識であり、これは直観および知覚的認識の内容である。この知覚的認識の内容を思惟によって普遍化するのが分析的方法と綜合的方法である。しかし、これは概念的な普遍の規定ではない。普遍の正しい規定は概念の自己運動としての規定であり、この知覚的な有はもっとも抽象的で単純な有であり、この有を出発点とする概念の自己運動が普遍の論理的な規定である。&lt;br /&gt;　こうして、知覚的な認識も思惟的な認識も、すべてが有からはじまって自己を否定し規定していく概念の過程として体系化され、物質と精神のすべてが過程のモメントとして具体的に規定される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　哲学＝論理学を認識論と考え、認識方法であると考える場合は有はこのような規定になる。現実の個別存在を普遍として規定する過程は経験科学一般の方法である。だから、ヘーゲルの認識論的な論理学は、経験科学の方法を一般化したものである。&lt;br /&gt;　しかし、論理学は唯一経験科学とは違う学問である。&lt;br /&gt;　論理学の出発点としての有は個別存在を意味しない。論理学の出発点としての有は抽象的な純粋有である。純粋有はすべての存在の規定の抽象であるが、それはすべての存在の規定の捨象という消極的な意味を持つのではない。論理学における有は、経験科学における直接的で抽象的な認識の出発点としての意味を持つのではなく、経験科学の対象ではない運動一般の原理の出発点である。論理学の純粋有は存在の規定の出発点ではなく、運動の規定の出発点である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルはこのあと、有からの進展をまとめている。この進展はこの節と同様認識論の進展である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二三九節、&lt;br /&gt;　特になし。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二四〇節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．進展の抽象的形式は、有においては他者と他者への移行であり、本質においては対立したものにおける反照であり、概念においては個と普遍の区別である(もっとも、普遍はその本性上、自己から区別されているもののうちへ自己を連続させ、区別されたものとの同一として存在している)。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは有の領域と本質の領域と概念の領域をこのように区分している。&lt;br /&gt;　ヘーゲルによると、有の領域は或る個別存在と他の個別存在の相関と移行の領域である。本質の領域は対立的な相関という、より具体的で高度の関係の領域である。概念の領域は、個別と普遍という内的な構造的な相関の領域である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの区分は認識論の区分である。論理学の区分では、有の領域は運動のもっとも抽象的な原理の領域である。それは質の生成と質の内的運動である量の規定の領域である。本質の領域は、自然界における或る質から他の質への運動の領域である。概念の領域は、社会法則という新たな運動を規定する領域である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二四一節から二四四節まで、認識論の一般的な展開であるから、特に説明の必要はない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲル哲学の到達点としての絶対精神と理念は、存在の全体が具体的規定をもって、つまり内的な区別において同一性を形成している、という意味である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの哲学体系は、物質と精神の、つまり存在のすべてを一元的な全体として具体的に規定することである。すべての存在を生成発展し関係するものとして、存在の規定を発展のモメントとすることで、規定された統一体が成立する。それが理念である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの体系において主観と客観、個別と普遍、抽象と具体、無限と有限といったあらゆる対立が統一のもとに規定されている。すべての規定を統一において規定することが近代哲学の到達点であり、これこそヘーゲル哲学の偉大な成果である。&lt;br /&gt;　しかし、論理構造の具体的な規定は修正する必要がある。哲学からあらゆる経験科学を排除し、その最後の随伴物である認識論を排除しなければならない。この分離の出発点は、ギリシャ以来の課題である有の規定である。認識論的な有と論理学の有の分離が近代哲学の最後の、そしてギリシャ以来の哲学の課題である。それは哲学とは何か、論理学とは何かという難問の答でもある。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは哲学の始元についてくり返し説明しているがまだ有に到達していない。論理学の始元としての有は抽象的な有である。ヘーゲルの認識論的な始元も抽象的な有である。ヘーゲルはカントの物自体を認識論敵な意味での抽象的な有であると考え、この有に具体的な規定を与えるために、この有が自己を否定して規定を生み出す体系を作り出した。ヘーゲルは、カントの物自体の空虚な抽象物を克服する方法は、抽象的な物自体と現象を統一することだと考えた。&lt;br /&gt;　この場合ヘーゲルの抽象的な有はカントが物自体から切り離した現象としての存在の規定を生み出すことになる。有は、何かが「有る」、つまりすべての存在が規定を持つという経験的認識を、抽象的な「有る」一般にまで下向した抽象物である。この抽象的な有から、その何かの規定へと引き返すことによって、その何かの規定を合法則的に構成することができる。有から出発する上向の過程における規定の体系化が対象の必然性の認識である。これは経験科学の方法であり、その方法を一般化したものが認識論である。&lt;br /&gt;　論理学における有は、何かがある、という個別対象の規定を課題にするのではない。論理学における有は、何かが「有る」という意味の有ではなく、「有る」が「ある」、という意味での「ある」の規定である。この場合の有は、存在一般という抽象的な規定ではなく、静止という意味を持つことになる。&lt;br /&gt;　ヘーゲルはこの有の世界に入らなかった。運動の原理としての有からはじまる論理学は、唯物論的な弁証法的論理学として新しく規定しなければならない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　HP--http://www2.odn.ne.jp/~cat45780/&lt;br /&gt;　(小論理学用掲示板もあります。)&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-2209053750902331792?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/2209053750902331792/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=2209053750902331792' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2209053750902331792'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2209053750902331792'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/03/blog-post_09.html' title='第三部 概念論 第二三六～第二四四節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8252143397345726524</id><published>2011-03-06T16:53:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T16:53:53.480+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第二三二～第二三五節</title><content type='html'>　二三二節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．(3) 有限な認識が証明のうちで作り出す必然性は、最初は単に主観的知識のために作り出される外的必然性である。しかし必然性そのもののうちで、有限な認識はその前提および出発点、すなわちその内容が目前に見出されまた与えられているという事態を越えてしまったのである。必然性そのものは即自的には自己関係的な概念である。主観的理念はかくして即自的に、絶対的に規定されたもの、与えられたものではないもの、したがって主体に内在するものに到達したのであり、これによって意志の理念へ移っていく。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、どのような認識であろうと、対象の一側面や部分を認識することからはじまるという意味で最初はまず主観的な知識である。主観的な認識が客観化するというのは対象の必然性を認識することであり、有限な認識が作り出す必然性とは、有限な対象の必然性の認識である。つまり経験諸科学である。有限な対象の必然性の認識は、個別存在の必然性の認識を常に超えていく。存在はすべてが関連しており、個別対象の認識の深化は必ずその相関に突き当たる。&lt;br /&gt;　すべての存在の相関は、すべての存在の基礎になるもっとも抽象的な規定にまで遡ると純粋有になる。この純粋有から論理学がはじまる。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの認識はこのように進行しない。対象の必然性の認識から論理の必然性に進むのではなく、対象に内在するものの認識から意志に移行する。ヘーゲルは対象認識の限界をいくつも並べて、認識の限界から意志へと進む必然性を示そうとしている。これは無理な図式である。これは論理的な進行ではなく、認識対象の広がりを示しているだけである。認識対象に人間の意志が入ってくる、という意味である。こうした進行は経験科学としての認識論の進行である。これは、論理学に接近し、論理を模索する過程であって、論理自身の進行ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　認識が証明によって到達する必然性は、認識の出発点をなすものとは正反対である。その出発点では、認識は、与えられたそして偶然的な内容を持っていたのであるが、今やその運動の終においては、それは内容が必然的であることを知っている。そしてこの必然性は主観的活動によって媒介されたものである。同じく主観性も最初は全く抽象的で、単なる白紙にすぎなかったが、今やそれは自己が規定するものであることを証明している。ここに認識の理念から意志の理念への移行がある。この移行は、これを立入って考えてみると、普遍が真実には主体性として、すなわち運動し、活動し、諸規定を定立する概念として、理解されなければならないことを意味する。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、認識は対象の一側面の規定から、対象の必然性の認識に到達する。経験科学に於ける対象認識は、ある対象を、したがってある限定された必然性を認識する。ある対象の必然性の認識は、他の対象との関係に、さらに両者の共通の必然性の認識に到達する。こうした認識の発展によって存在すべての、つまり全体の認識に到達する。客観がこのような関係において存在するからである。&lt;br /&gt;　ところがヘーゲルは、この必然性は直接的に表に出ているものではないから主観が構成したものである、と考える。そのために、認識の深化は、認識の理念から意志の理念への移行になる。この場合、対象の必然性を理念が規定するものであり、同時に実践理性は自己の規定を客観化し実現するものであるから、対象に概念的な規定を与えることになる。だから、普遍を主体であり、運動し、活動し、定立する概念として理解すると、真の主観と客観の一致となる。これが、自由とは必然性の認識である、という論理の内容である。&lt;br /&gt;　しかし、実際には認識の理念から意志の理念へと移行するのではない。まず第一に、認識の深化は対象の必然性の規定に到達するが、それは主観による定立であるが、客観自身の規定の主観への反映である。したがって第二に、移行は主観によって定立されるものであっても、客観自身においておこる移行である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは、必然性の規定即ち論理学は客観の規定から主観による主体的な規定へと移行であると考え、その意味で論理的規定は主体的であり能動的であると考えている。実際の移行は主観への移行ではなく、客観自身に於ける移行である。客観自身に於ける移行とは経験科学の個別必然性から、すべての存在を運動として規定する論理学への移行である。運動を前提すれば、個別の運動から全体の運動への移行である。存在の普遍は運動である。&lt;br /&gt;　第三に、客観的世界自体が概念の領域への新しい移行を生み出す。論理の内容として初めて社会法則という運動形式が生まれる。ヘーゲルが言う、またカントが言う自由の領域、意志の領域は、社会法則を媒介にしなければ規定することができない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理は、論理が客観の運動の反映であること、経験科学から論理学へ運動が飛躍的に移行すること、客観の運動自身が社会法則の成立において質的飛躍を遂げること、を含んでいない。主観と客観の直接的な関係だけを認識論的に規定すると、認識の理念から意志の理念に移行することが論理の飛躍的高度化としての理念に見える。こうして自由の問題は主観と客観の直接的な関係として規定され、認識の理念から一層高い意志の理念への移行として理解される。その結果、必然性の認識による対象変革的な実践が自由の内容になる。自由はこういう単純な相関において規定することはできない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二三三節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．即自かつ対自的に規定されたものであり、かつ自己同一で単純な内容である主観的理念は、善である。この主観的理念が自己を実現しようとする衝動は、真の理念とは反対に、見出された世界を自己の目的にしたがって規定することに向っている。--こうした意志は、一方では、前提された客観が空無であるという確信を持っているが、他方、それは有限なものであるから、それは主観的にすぎない理念としての善の目的および客観の独立性を前提している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは客観的概念と一致する主観的概念を、即自且つ対自的に規定された善であると考えて、その善と客観の関係を規定している。ヘーゲルにとっては善は主観的理念である。目的意識の中から特に善を取り出しているのは、実践の位置づけが主観と客観の単純な関係において規定されているからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　論理的には、目的意識的な実践一般と客観の関係をまず規定しなければならない。ヘーゲルは目的意識的活動と客観の関係を、手段を媒介とする一致として規定した。主観と客観を分離することができないこの単純な関係においては、目的意識的実践の意義を規定することはできない。人間の目的意識的活動とは動物と区別される労働であり、手段を媒介する労働が社会法則を作り出し、自然法則としての客観と主観を分離する。そして、社会法則の内部において主観と客観の新しい関係を形成する。&lt;br /&gt;　目的意識の内容は社会的な関係によって規定される。善の内容、一般的に言えば現実変革的な目的意識の内容は主観によって違っており、相互に対立する。この対立が社会法則の契機となる。だから、即自且つ対自的に規定された自己同一で単純な内容である主観的概念は存在しない。一般的な善の概念も存在しない。個人の目的意識は常に有限で客観的法則と対立する。こうした複雑な関係を論理に取り入れずに、主観と客観の単純な対立関係を前提にすると、目的意識一般や善一般と客観の問題を規定することになり、形式論議になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二三四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．この活動の有限性は、だから、善の目的が客観的世界のそれ自身矛盾している諸規定のうちで実現されると同時に実現されないという矛盾、善の目的が本質的であると同時に非本質的なもの、現実的であると同時に単に可能的なものとして定立されているという矛盾にある。この矛盾は善の実現の無限進行としてあらわれ、善はそのうちでゾレンとして固定されているにすぎない。しかし形式の点から言えば、この矛盾の消滅は、活動が目的の主観性を揚棄すること、そしてそれとともに客観性をも揚棄して、二つのものを有限化している対立を揚棄することにある。しかも単にこの主観性の一面性のみならず、主観性一般が揚棄されなければならない。なぜなら、他の同じような主観性がまた生ずるとすれば、すなわち、対立がまた新しく生み出されるとすれば、それはすでに揚棄されたはずの以前の主観性となんら異るところがないからである。以上述べたような自己内復帰は同時に、善であり二つの側面の即自的な同一性である内容の自己内化である。そしてそれはまた、客観はそれ自身に即して実体的なものであり真実在であるという、理論的態度の前提(二二四節)の想起である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主観の実践は常に有限である。善が即且つ対自的な無限者であると想定するなら、実践の現実的結果は善の意志、善の目的の実現ではありえない。結果は常に有限であるから。したがって、善の実現はゾレンとして固定され、無限進行として現れる。主観的な目的の実践は、個人的な有限な実践であり結果も有限であり、現実の一部分を変更するに過ぎない。これは善の目的に限らず目的意識一般、実践一般に言えることである。しかし、実践は人類全体の実践として無限に続くのであるから、目的意識的実践によって善は実現される、とも言える。これはごく単純な量的な矛盾である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは善の客観的実現の問題を、単純に有限と無限の矛盾として規定している。自然法則と分離した社会法則が論理に組み込まれない限り、主観と客観の矛盾はこうした形式的矛盾に止まる。この矛盾の解決は無限進行であり、限界もまた無限進行である。無限進行は有限な無限である。善と客観の関係は、主観と客観の関係一般においてはこれ以上の関係を構成することはありえず、この関係の揚棄もない。無限進行が結論でありそれ以上の関係はありえない。前提が単純だからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遣　知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする。直接的なもの、目前にあるものは、意志にとっては不変の存在ではなく、即自的に空無なもの、仮象にすぎない。ここには道徳の立場に立つ人々が空しくその解決を求める矛盾があらわれる。これが実践にかんするカント哲学の立場であり、フィヒテの哲学の立場でさえなおそうである。この立場によれば、善はわれわれが実現しなければならないもの、その実現のために働かなければならないものであり、意志とは活動しつつある善にほかならない。もし世界があるべき姿を持っているとすれば、意志の活動はなくなるのであり、したがって意志はそれ自身、自己の目的が実現されないことをも要求するものである。これは意志の有限性を正しく言いあらわしている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、認識は世界をあるがままに受け取り、意志は世界をあるべき姿に変えようとする。世界は意志にとって空無であり、意志によって変えることができる。だから、実践によって善が実現されると、意志の活動がなくなることになる。だから、意志は目的が実現されないことを前提としており、目的が実現されない限りにおいて存在することになる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　風が吹けば桶屋が儲かる式の因果関係の羅列である。主観と客観が分離されて社会法則が成立するとこのような関係は消えてなくなる。知性は世界をあるがままに受け取ろうとするのではなく、世界を自分の利害によって受け取ろうとする。意志は世界をあるべき姿に変えようとするのではなくて、意志は自分の利害を実現しようとする。目前にあるものは不変の存在ではなく、かといって空無なものでも仮象でもなく、矛盾をもった客観的な法則である。主観はこの矛盾に規定されて実践するのであって、客観一般と主観が関係するのではない。&lt;br /&gt;　カントもフィヒテも主観と客観を単純な対立関係において理解している。だから間違った矛盾に突き当たる。ヘーゲルはヘーゲルらしい解決策を与えるが、それは思弁的な図式にすぎない。ヘーゲルも主観と客観の関係の規定が同じだからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．しかしこうした有限性のもとに立ちどまることは許されない。意志の過程そのものが、こうした有限性およびそのうちに含まれている矛盾を揚棄する。矛盾の解決は、意志がその結果のうちで認識作用の前提へ帰り、かくして理論的理念と実践的理念とが統一されることにある。意志は、目的が自分自身のものであることを知り、知性は世界が現実的な概念であることを知る。これが理性的認識の真の態度である。空無なもの、消滅するものは、世界の表面にすぎず、真の本質ではない。この本質こそ即自かつ対自的に存在する概念であり、かくして世界はそれ自身理念である。世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう。一般的に言ってこれが大人の立場である。若い者は、世界は全く害悪にみちていて、根こそぎ改革されねばならぬと思っている。宗教的意識はこれに反して、世界は神の摂理に支配されており、したがってそのあるべき姿に一致していると考える。しかしこうしたあるとあるべしとの一致は、硬化した、過程のないものではない。なぜなら、世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在するからであり、精神の世界と自然の世界とのあいだには、後者は不断に循環しているにすぎないが、前者はそれのみならずまた発展するという相違があるからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、カント的な立場による矛盾を経験すると、意志は自己と客観についての認識を変える。理論は理念になり、実践は実践理念になる。それがヘーゲルの言う矛盾の揚棄である。揚棄は解釈の仕方にすぎない。&lt;br /&gt;　意志は、目的が自分自身が作り出す理念であることを知り、知性は世界が現実的な概念であることを知る。現実が空無で消滅するものである、という認識が間違いであったことを知る。実践の過程で、現実の空無なもの、表面的なもの、非本質的なものは消滅する。したがって、世界は常に理念を実現している。&lt;br /&gt;　これではカントの矛盾から前進しているとは言えないし、矛盾の解決でもない。&lt;br /&gt;　目的意識的な実践における主観と客観の関係の規定ではヘーゲルはカントと同じである。「世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識する」ことがカントとの違いである。これは現実の保守的な肯定である、ということもできるが、変革的な実践を前提しており、それによって無限性が現実に実現されている、と考えるのだから、変革的でもある。&lt;br /&gt;　問題は、主観と客観の関係はこのような単純な関係になっていない、ということである。ヘーゲルのこうした解釈は、主観と客観の関係を単純化していることによる結果である。客観的世界は有限である。主観は無限的な目的を持っている。その主観と客観の関係、主観と客観の統一は、主観の目的が客観を変革することにおいて無限的な過程において実現されている、と言っている。人間は目的意識的な実践をしており、現実はそれによって変更されており、現実はなるようになっており、それ以外ではありえない、というのはその通りである。&lt;br /&gt;　これは人間の実践によって現実は変化している、というだけの規定であり、主観と客観の関係の規定になっていない。だから、この規定が革新的か保守的かという問題は存在しない。主観と客観の相互関係を悪無限的発展として量的に捉える場合、有限の側面は積極的変革になり、無限の側面は諦観あるいは現実そのままの肯定になる。保守的でもあり変革的でもある。それは、主観と客観の関係を形式的に外的に捉えているために、見方によってどうとでも評価できるからである。ヘーゲルの論理学を保守的であるとか変革的であると評価すること自体形式的で外的である。論理は論理的に批判すべきである。&lt;br /&gt;　カント的、そしてヘーゲル的矛盾を解決する論理的な規定は、人間の実践が主観と客観を分離して社会法則を作り出すことを運動の規定として論理の内容とすることである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二三五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．善が即自かつ対自的に達成されているということ、したがって客観的世界は即自かつ対自的に理念であると同時に、たえず自己を目的として定立し、活動によって自己の現実を生み出すということ、このことによって善の真理は理論的理念と実践的理念との統一として定立されている。--このように、認識の差別と有限性とから自己へ復帰し、そして概念の活動によって概念と同一となった生命が、思弁的あるいは絶対的理念である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、善意志をもって客観に対して変革的に実践すると、客観は部分的に有限的に変化する。その変化した有限の客観に対してふたたび善意志をもって変革的に実践する。主観と客観の関係をこのように規定すると、絶対的真理と相対的真理の関係と同じで、量的無限の矛盾が生じる。主観と客観の関係を悪無限的関係として規定する場合は、二つの対立的解釈が生まれる。変革されていく客観を肯定的に無限的に評価すると、主観の否定と現実の肯定になり、矛盾は永遠に解決されていることになり、諦観的な現実認識となる。現実を否定的、有限的に評価すると、矛盾は永遠に解決されない課題となり、主観の肯定という主体的変革の思想になる。&lt;br /&gt;　これは主観と客観の規定から出てくる必然的な結論であって、どちらも同等に正当であり、どちらも同等に間違いである。この矛盾を克服する方法は主観と客観の相互関係の規定を変えることである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8252143397345726524?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8252143397345726524/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8252143397345726524' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8252143397345726524'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8252143397345726524'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/03/blog-post_06.html' title='第三部 概念論 第二三二～第二三五節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-18608956530444746</id><published>2011-03-04T20:19:00.002+09:00</published><updated>2011-03-04T20:19:59.061+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第二二八～第二三一節</title><content type='html'>　二二八節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．この普遍性は(2)また規定された普遍性である。ここでは活動は概念の諸モメント--概念といっても、有限の認識作用のうちにあるのだから、無限の概念ではなく、悟性的な規定された概念であるが--に沿うて進んで行く。こうした概念の諸形式へ対象を取り入れるのが綜合的方法である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念だとか悟性だとか複雑に見えるが、ここに書かれているのは次のような単純な内容である。&lt;br /&gt;　すべての普遍性は規定された有限な普遍性である。それは経験科学における普遍である。この普遍は対象から取り出されて主観に蓄積されて、対象を取り入れる概念形式となる。&lt;br /&gt;　この普遍の形式に対象を取り入れることができなくなる、つまり普遍と対象が矛盾してくるか矛盾する対象が発見されると、普遍の規定が変化するか、新しい普遍が形成される。こうして綜合としての普遍も変化していくのが認識の発展である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　綜合的方法の運動は分析的方法の逆である。分析的方法は、個から出発して普遍へ進むが、綜合的方法においては、普遍(定義としての)が出発点をなし、われわれは普遍から特殊化(分類における)を通じて個(定理)へ進んでいく。したがって綜合的方法は対象に即しての概念の諸モメントの発展である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは、分析的方法と綜合的方法を単純に分離している。個別を客観に普遍を主観に振り分けた上で、分析は個別から普遍へ、つまり客観から主観へ、綜合は普遍から個別へ、つまり普遍の具体化、現実化と考えている。&lt;br /&gt;　この図式は恣意的で認識論としても無意味である。この図式の背後に含まれている論理の内容は本質の領域のカテゴリーである。しかも、これは判断と推理の繰り返しである。ヘーゲルが同じ内容をくり返し書いていることは、ヘーゲルの論理の抽象性と、論理学体系の混乱を示している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二二九節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．(イ) 対象がまず規定された概念一般の形式のうちへもたらされ、これによって対象の類および普遍的規定性が定立されるとき、これが定義である。定義の材料および基礎づけは、分析的方法(二二七節)によってえられる。しかしこの規定性は単に目じるしの役目をするにすぎない。言いかえれば、対象に外的な、単に主観的な認識に役立つためにあるにすぎない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、対象を定義の形式で普遍化する場合、まず任意である。その普遍の規定が対象の構造とどのような関係にあるかは、普遍の規定が蓄積されることによって徐々に明かになる。&lt;br /&gt;　定義では対象の一つの特性を取り上げて対象の普遍とする。すべての対象は無限の特性を持っているから定義は一面的である。この意味で分析的方法によって得られる普遍は対象に外的で主観的にみえる。ヘーゲルはこの一面的な認識を主観的であるとしているが、認識一般において主観的であることと客観的であることの区別はない。どのような場合でも主観的であり客観的である。対象の認識が一面的である場合が主観的でより深くなると客観的ということができるが、認識はどのような場合でも一面的な認識から深化するし、一面的な認識も客観的であるから、主観的という規定は適切ではない。ヘーゲルのこうした指摘は、具体的な規定ができないための抽象的な規定である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　分析的方法と綜合的方法の関係においても、分析によって得られた普遍の相関関係あるいは全体が綜合であるから、分析的方法が対象に外的で一面的で、ヘーゲル的に言えば主観的である場合は、綜合も主観的になる。分析的方法も綜合的方法も、対象に即しての概念の諸モメントの同時的な形成過程である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルがここで挙げている対立と統一は間違った図式的対立である。ヘーゲルは認識方法と論理学を区別していない。そのために、主観と客観の関係、認識の主観性と客観性、分析と綜合、といった対立が論理学の中に入ってくる。こうした対立は論理学の内容ではない。主観と客観の対立は論理学の契機になるがヘーゲルの図式は認識論的な対立であるから、論理学における主観と客観の関係とは内容が違っている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺--さらにまた、一般に定義された対象の内容には必然性がない。われわれは空間、植物、動物、等々が存在することをただ認めなければならない、そして、これらの対象の必然性を示すということは、幾何学、植物学、等等のかんすることではないのである。こうした事情だけから言っても、綜合的方法は分析的方法におとらず哲学には適しないものである。というのは、哲学は何よりも先にその対象が必然性を持っていることを証明しなければならないからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、分析的方法も綜合的方法も対象の認識形式である。両者が客観の認識としてより具体的に一致していくと客観とより具体的に一致していき、ヘーゲル風に言えば概念的になる。定義は対象の一つの普遍の規定であるから必然性を規定することはできない。それは必然性の一契機である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは経験科学に存在の直接的な認識を、論理学に必然性の認識を振り分けている。経験科学から必然性の認識を取り去るのは間違いである。空間、植物、動物等々の必然性を示すことが幾何学、植物学等々の課題である。&lt;br /&gt;　個別対象の必然性を示すことは哲学の課題ではない。哲学は対象を持たない。経験科学は個別対象の必然性を規定する。哲学＝論理学はすべての存在を運動として規定する。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二三〇節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．(ロ) 概念の第二のモメントを、すなわち特殊化としての普遍の規定性を示すのが分類である。これもやはり外的な見地からなされる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、認識の発展とは対象の普遍を発見していく過程である。分析的方法も綜合的方法も普遍の規定である。普遍の規定が蓄積されると、まず外的な見地から普遍相互の関係が規定される。それが分類である。分類が発展していくにつれて、普遍と普遍の関係が明かになり、したがって普遍の内容が具体的になり、分類は内的な必然性と一致した形式に整えられていく。&lt;br /&gt;　補遺でヘーゲルはこのことを、分類は完全でなければならない、分類は自然的でなければならず、単に人為的、すなわち勝手なものであってはならない、と書いた上で、「一般に真の分類は概念に規定されているものと考えられなければならない。」と書いている。分類は外的で形式的な分類から、内的な概念的な分類へと発展していく。それが認識の発展である。しかもこれは無限的な過程である。つまり、無限的に概念的になる。ヘーゲルの指摘は外的で形式的である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二三一節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　(ハ) 具体的個別性においては、定義における単純な規定性が関係と考えられているから、対象は具体的個別性のうちにあるとき、異った諸規定の綜合的関係である。すなわちそれは定理である。これらの諸規定は異ったものであるから、それらの同一は媒介された同一である。媒介項をなす材料を持ち出してくるのが構成であり、認識作用にたいして上述したような関係の必然性を作り出す媒介そのものが証明である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、個別存在は無限の普遍によって構成されている。定義はその一つの普遍を規定する。定理は定義に基づいて異なった諸規定＝不変を導き出す。これは認識の発展過程である。&lt;br /&gt;　このあとヘーゲルは、幾何学と哲学を区別している。分析的方法も綜合的方法も前提とする対象を持っている。哲学は前提を持たないので、この方法は哲学には採用できない。この点では幾何学も同じである。数学は概念を取り扱うのではなく、感性的直観の抽象的な諸規定を取り扱うに過ぎない、等々。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは経験科学の認識方法をいくつか批判して、それは哲学的方法ではない、と指摘している。経験科学は具体的な対象を認識するが、哲学は具体的な対象を持たない。ヘーゲルはこのことを理解しているが、哲学が何を対象にしているのかを規定していない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは論理学の最後の段階で、哲学とは何か、哲学の方法とは何かを問題にしている。経験科学は常に普遍と普遍の関係の矛盾に突き当たる。普遍は運動だからである。存在するものが運動しているだけでなく、多様な存在の質的な違い、普遍の違いそのものが運動形態である。この運動の一般法則を規定するのが論理学である。経験科学の方法を取り上げて、この方法は限界がある、哲学的方法ではない、と指摘することは論理学の特徴を規定できないことを示している。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-18608956530444746?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/18608956530444746/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=18608956530444746' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/18608956530444746'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/18608956530444746'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/03/blog-post_04.html' title='第三部 概念論 第二二八～第二三一節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-4813746891902350958</id><published>2011-03-01T22:39:00.001+09:00</published><updated>2011-03-01T22:40:09.987+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第二二三～第二二七節</title><content type='html'>　二二三節、ニニ四節&lt;br /&gt;　▽、特になし。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二二五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．上述の過程が一般的に言って認識作用である。そこでは主観性の一面性と客観性の一面性との対立が一つの活動のうちで即自的には揚棄されている。しかしこの揚棄は最初は即自的にのみ行われるから、この過程そのものが直接にこの領域の有限性をまとっており、異ったものとして定立されているところの理性の衝動の二つの運動に分裂する。すなわち、それは一方では存在する世界を自己のうちへ、すなわち主観的表象および思惟のうちへ取り入れることによって、理念の主観性の一面性を揚棄し、自分自身の抽象的な確実性を、真理と考えられている客観性の内容をもってみたす。他方ではそれは逆に、偶然的なものおよび本来空無な形象、すなわち単なる仮象と思われている客観的世界を、真に存在する客観的なものと思われている主観の内面によって規定し、前者のうちへ後者を形成し入れる。一方は真理を求める知識の衝動、認識そのもの、すなわち理念の理論的活動であり、他方は善を完成しようとする善の衝動、意志、すなわち理念の実践的活動である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主観と客観の分離的関係が基礎となっている場合、両者の関係は、客観から主観への移行である認識と、主観から客観への移行としての実践の二つに分離される。認識は主観が客観を取り入れることによって主観の一面性を揚棄する。他方、実践は、偶然的で空無で仮象である客観的世界を、主観の内面によって規定し、真に存在するものとする、つまり、主観は実践によって、概念的関係を客観に与える。&lt;br /&gt;　主観と客観の関係に社会法則が媒介として導入されない場合は、主観と客観の関係はこのような単純な関係になる。カントも外界の内容を取り入れることを認識と考えた。そして、善の実践は自己から発する自由な行為である、とした。この点では理論理性と実践理性の関係はカントと同じである。しかし、カントは物自体を想定したことにおいて、ヘーゲルと大きな違いがある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二二六節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．広い意味での認識作用の一般的な有限性は、それが自己分裂して対立を前提し(二二四節)、認識の作用そのものがこの前提された対立への抗議を蔵しているということにある。ところでこの有限性は、認識そのものの理念に即して、さらに自己を規定し、理念の二つのモメントは互に別別のものという形態を持つようになる。そしてこの二つのモメントが完全であっても、それらは反省の関係をとるにすぎず、概念の関係をとるにはいたらない。したがって与えられたものとしての素材を同化することは、他方ではやはり素材にたいして外的である概念諸規定のうちへ素材を取り入れることとしてあらわれる。そして概念諸規定そのものも互に別々のものとしてあらわれる。これは悟性として活動している理性である。したがってこうした認識が到達する真理も、やはり有限な真理にすぎず、概念の無限の真理はそれにとってはあくまで潜在的にのみ存在する目標、彼岸にすぎない。しかしそれはその外面的な活動のうちで概念に導かれているのであって、概念の諸規定がその進展の内的な導きの糸をなしているのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ここには論理学を認識論として規定するヘーゲルの特徴が現れている。認識論においては、論理の基礎が主観と客観の対立になる。ヘーゲルの論理では、理念の二つのモメントである主観と客観が対立していればそれぞれが有限であり、一致すると無限である。対立して認識としてのみ一致する場合は反省的な対応関係としての一致であり、概念的な一致ではない。&lt;br /&gt;　主観と客観の有限な関係、つまり有限な認識は、主観が素材としての客観を取り入れる関係である。この場合、素材にとって概念諸規定は外的な、つまり有限な関係にある。有限な関係においては、素材を受け入れる概念規定そのものが、互いに分離されており、統一体になっていない。分離された概念のなかに素材も分離されて取り入れられる。したがって、主観と客観の統一は目標であり彼岸としてのみ存在する。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルは悟性的認識をこのように纏めた後、彼岸に近づいていくこの過程は概念に導かれている、としている。しかし、この過程が悪無限を克服することはないし、悪無限が無限を形成するのでもない。主観と客観の対立を基礎としている限り、両者の一致はありえない。客観の規定だけが主観と客観の一致を形成するのであり、その一致を形成するための基本的な対立は、一般的には有と無の対立であり、ヘーゲルがここで問題にしている本質の領域では物自体と現象の対立である。&lt;br /&gt;　本質の領域の論理は、認識論においては主観と客観の対立が基礎になり、客観的な運動の規定においては物自体と現象の対立が基礎になる。主観と客観の対立を基礎とする認識論を含んでいるためにヘーゲルの論理は混乱している。ヘーゲルの逆立ちした論理を修正して足で立たせるというのは、ヘーゲルの認識論的な展開を排除して、客観的な運動の規定に純化することである。認識論的な論理と論理学的な論理は逆立ちの関係にある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　認識の有限性は与えられた世界を前提するところにあり、その際認識する主観は(白紙)としてあらわれる。人々はこうした考えをアリストテレスに帰しているが、アリストテレスほど認識のこうした外面的な理解から遠い人はない。このような認識は、まだ自分が概念の活動であることを知らない認識であって、それは即自的にのみ概念の活動であるにすぎず、対自的にはそうでないのである。それは自分のふるまいを受動的だと思っているが、しかし実際は能動的なのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは客観の素材は有限であると考えている。したがって、認識主観が白紙であり、客観の素材を受け入れるだけであれば、主観との一致、つまり認識自体も有限である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルにとって、客観の世界は有限であって、客観には無限＝普遍＝概念は存在しない。この無限＝普遍＝概念はどこから来るか、あるいはそれは何かが哲学史上の難問であった。ヘーゲルは、主観と客観の一致が無限であると考えているが、両者の一致において、有限である素材に無限性を与えるのは主観である。ヘーゲルが主観の概念的活動を能動的だと言っているのは、主観が概念として普遍を作り出すのであって、客観の素材からとってくるのではない、という意味である。主観的概念が客観の有限的な素材に普遍を与えると考えているために主観の概念規定は能動的になる。&lt;br /&gt;　しかし、客観的世界を有限とした上で、認識の有限性の限界を主観の能動性によって超えることはできない。主観が能動的である、という想定は客観的な無限を規定できないことを示している。客観的に存在する無限とは客観の運動である。主観と客観の一致が無限ではなく、客観の無限性を認識することが主観と客観の一致である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二二七節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．有限な認識作用は、自分とは異るもの、与えられた、自分に対立している存在、すなわち外的自然や意識の多種多様な事実を前提するから、(1) その活動の形式は普遍性の形式的同一性あるいは抽象である。したがってこの活動は与えられた具体的なものを分解し、その諸区別を孤立化し、そしてそれらに抽象的な普遍性の形態を与えるところにある。あるいはまた具体的なものを根抵としてそのままにしておき、本質的でないと思われる特殊なものを捨象することによって、具体的な普遍、類あるいは力および法則を取り出すところにある。--これが分析的方法である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、有限な認識作用は、客観を多種多様な事実として前提するから分析的である、とヘーゲルは考えている。ヘーゲルは客観における有限と無限の関係を理解しておらず、有限を客観に無限を主観的概念に振り分けている。そして、主観的概念が能動的な役割を果たさない場合は、客観を前提とした有限な認識ができあがる、と考えている。これは基本的な間違いである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　有限な認識とは経験科学一般の認識である。経験科学は、対象の一側面を普遍として分離する。これは任意の偶然的な側面の分離である。あるいは、本質的でないと思われる特殊なものを捨象することによって、対象の本質をなしている普遍を対象の類あるいは法則として取り出す。この場合は具体的な普遍である。&lt;br /&gt;　こうして客観的な個別存在は普遍として分離され、客観の普遍の規定が蓄積される。この普遍が十分に蓄積されると、普遍と普遍の関係が明かになってくる。分離した普遍が体系的な関係を作り出していることが理解されるようになる。そして、この普遍の構造的関係が、分離される前の全体を再形成することになる。存在のすべてを普遍の関係＝運動として規定するのが論理学であり、これが客観の無限性である。ヘーゲルは運動の規定に到達しておらず、客観的な無限を理解できない。そのために、認識論の伝統を引き継いで、主観と客観の一致を無限として規定している。この一致がヘーゲルの言う概念である。ヘーゲルのこの概念は悪無限としての量的無限である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　人々は普通、分析的方法に従うか綜合的方法に従うかは、われわれの選択によると言っている。しかし事実はけっしてそうでなく、有限な認識作用という概念から生ずる上述の二つの方法のうち、どちらを用いたらいいかということは、認識さるべき対象そのものの形式によるのである。認識作用は最初は分析的である。客体は、この場合認識作用にたいして個別化の形態を持ち、分析的認識の活動は、目前に見出される個別的なものを普遍へ還元することに向けられている。ここでは思惟は抽象あるいは形式的同一性という意味しか持っていない。ロックをはじめあらゆる経験論者が立っているのは、この立場である。多くの人々は、認識作用は与えられた具体的な対象を抽象的な諸要素に分解し、これらを個々別々に観察する以上何もすることができないと言う。しかし、こうした方法が事物を変化させるものであり、あるがままに事物を把握しようとする認識は、その際自己矛盾におちいるということはすぐにわかる。例えば、化学者は一片の肉をレトルトへ入れて、それをさまざまの仕方で処理し、そして、私は肉が窒素、炭素、水素などから成っていることを発見したと言う。しかしこれら抽象的な素材はもはやけっして肉ではないのである。経験的心理学者が或る行為を観察において示される種々の側面に分解して、これらの諸側面をあくまで分離する場合も同じである。分析の対象は、言わば、人がその皮を一枚一枚はいでいくたまねぎのように取扱われているのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、分析的方法と綜合的方法は対象を認識する二つの方法であって、対象の形式によって決まるのではない。したがって二つの方法を分離することはできない。客観的な個別存在は、個別存在として綜合的に認識されている。すべての個別存在は無限の普遍によって構成される全体性である。ヘーゲルはこのことを理解していない。&lt;br /&gt;　無限の普遍によって構成されている個別的存在は、個別的存在として綜合的に認識されると同時に、その全体から個別の普遍が分離される。これが分析的方法である。分析的方法によって分離される普遍はもともと全体として関連している。だから、その全体的関連を具体的に明かにするためには、個別を構成している普遍と普遍を分離しなければならない。その場合、対象はある総合的な全体において、その全体との関係で分離される。だから、どのような場合でも分析的方法は綜合的方法でもある。&lt;br /&gt;　個別対象から取り出される普遍は、他の個別存在との同一性の抽出であり、関係の規定である。だから、分析は個別対象を超えて他の個別存在との関係の規定でもある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　分析的方法による対象の分解過程は、事物をあるがままに認識する過程である。その際一片の肉が窒素、炭素、水素に分解されると、その一つ一つは肉ではなくなる。しかし、同時にそれは肉である。肉はそれらの要素によって構成されているからそれがなければそれは肉ではない。肉がどのような普遍によって具体的に構成されているかを認識するためには、肉を分解しなければならない。でなければ、肉片という抽象的な綜合的全体的規定に止まる。対象を分析する抽象は具体的な対象内部の構造を分離して取り出している。だから、この取り出された普遍の相互関係が綜合である。対象は綜合において分析され、分析において綜合される。分析のしかたは綜合の仕方であり、分析の内容は相関の内容である。分析が間違っていれば綜合も相関も間違っている。全体的な関連の内にある客観的世界の具体的内容は、対象の全体を綜合において分析し、分析において綜合することによってのみ明かになる。有限な対象を、この分析と綜合によって具体的に認識していく過程において、認識は有限な対象を超える。&lt;br /&gt;　この認識過程は有限な無限的過程、つまり悪無限の過程である。この過程の深化が飛躍して、普遍の運動だけを取り出して規定することが真の無限性の規定である。それが論理学である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-4813746891902350958?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/4813746891902350958/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=4813746891902350958' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/4813746891902350958'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/4813746891902350958'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/03/blog-post.html' title='第三部 概念論 第二二三～第二二七節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-1898429228554113861</id><published>2011-02-24T21:31:00.001+09:00</published><updated>2011-02-24T21:32:07.608+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第二一三～第二一五節</title><content type='html'>　二一三節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．理念は即自かつ対自的な真理であり、概念と客観性との絶対的な統一である。その観念的な内容は、概念の諸規定にほかならず、その実在的な内容は、概念が外的な定有という形式のうちで自己に与える表現にすぎない。しかも概念はこうした形態を自己の観念性のうちに閉じこめて自分の力のうちに保ち、かくして自己をそのうちに保っているのである。&lt;br /&gt;　・・真理とは、外的な事物がわたしの表象に対応することではない。それは私という個人が持っている正しい表象にすぎない。理念においては、個人や表象や外的な事物は問題でないのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの思弁的体系では概念と客観との統一が理念である。主観と客観の一致ではなく、概念と客観性の統一が真理であり理念である規定するために、客観的な概念が想定されている。実際には客観的な概念も、概念と客観の統一としての理念も存在しない。&lt;br /&gt;　真理は外的な事物が個人の表象に対応することではない。しかし、概念と客観の統一が真理ではない。真理とは客観的世界の意識への反映である。表象は意識への反映の一部分である。客観の理論的反映は客観の普遍の反映であり、経験科学と論理学の二つの内容に分かれる。ヘーゲルは論理学と経験科学の違いを理解していない。そのために真理一般を問題にしている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　真理とは意識と客観の一致であり、理論的な一致の形式は経験科学と論理学である。経験科学と論理学が概念に一致するのではなく、経験科学と論理学が概念である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　■．--しかしまたあらゆる現実的なものは、それが真実であるかぎり、理念であり、理念を通じて、また理念によってのみ、その真理を持っているのである。個別的な存在は理念のなんらかの一側面であり、したがってそれが存在するためには、そのほかになお、同じく特別に自分だけで存立しているようにみえる他の諸現実が必要である。それらすべてをあわせたもの、およびそれらの関係のうちでのみ、概念は実現されているのである。個別的なものは単独ではその概念に一致しない。個別的なものの定有のこうした制限性がその有限性とその滅亡をなすのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、絶対者は理念である、現実的なものは真実であるかぎり理念である、という大袈裟な規定はごく単純な経験的意識であ。&lt;br /&gt;　個別的存在は現実の一側面であり、個別存在の全体とその内的関連がその真理である。個別存在は他の個別存在との相関において存在している。個別的なものは有限であり滅亡する。ヘーゲルのこうした規定は有の領域の内容である。個別的な存在が理念の一側面であるなら、個別的存在のすべてをあわせたもの、およびそれらの関係が理念である。これは全体と部分の量的関係にすぎない。また、個別的なものの定有の制限性が有限性と滅亡をなす、というが、ヘーゲルのこれまでの規定でも、個別性＝定有＝制限＝有限＝滅亡するもの、という関係はすでに規定されている。理念の規定においてヘーゲルは同じ規定をくり返しているにすぎない。ヘーゲルは理念の領域に特有の論理を規定できない。&lt;br /&gt;　このあと、現実存在は概念の外化である、という形式規定をくり返している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　真理と言えば、人はまず第一に、或るものがどういう風にあるかを知ることだと思っている。しかしこれは単に意識との関係における真理にすぎず、言いかえれば、形式的な真理、単なる正しさにすぎない。より深い意味における真理は、しかし、客観が概念と同一であることである。例えば真の国家、真の芸術作品と言われる場合、そこで問題になっているのは、こうしたより深い意味の真理である。それらは、それらがあるべきものである場合、すなわち、それらの実在がそれらの概念に一致している場合、真である。こう解するとき、真実でないものは、また悪いものと呼ばれているものと同じものである。悪い人間とは、真実でない人間、すなわち人間の概念あるいは人間の使命に合わないような行為をする人間である。もっとも、概念と実在との同一を全く欠くときは、何ものも存立することはできない。悪しきものおよび真実でないものさえ、その実在がなんらかの点でその概念に適合しているかぎりにおいてのみ存在する。全く悪しきもの、あるいは全く概念に反するものは、まさにそのゆえに内的に破滅しつつあるものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、真理とは主観と客観の一致である。この場合の主観は個別の主観的意識ではなく、人類の歴史的な意識の総体である。この意味で客観的な意識と客観的世界の一致が真理である。ヘーゲルの体系では、類的な意識を生み出す社会法則が欠落しており、その代わりに客観的な観念が想定されている。そのために論理が混乱して循環論に陥る。&lt;br /&gt;　客観的概念と客観的存在の一致が真理であるとして、客観的存在と分離した客観的概念を規定する場合は、客観的概念とは何かを客観的存在から離れて、つまりア・プリオリに規定する必要がある。ア・プリオリな概念は無規定になるから、カントの物自体を空虚な抽象物として批判したヘーゲルは、現実の全体とその関係が客観的概念である、として客観の内容を概念として取り込むことによって意識と客観の一致に引き返している。現実の全体とその関係とは何か、というのは現実についての人類の認識である。だから、現実の全体とその関係とは何かの答えは、主観と客観の一致になる。&lt;br /&gt;　人類の意識＝認識とは別の、客観から独立した客観的概念は存在しない。ヘーゲルはカントの物自体を概念として想定し、しかも悟性規定のすべてをその概念と統一することで物自体の抽象性を否定した。これによって本質の領域の論理の具体的な規定ができなくなった。ヘーゲルの概念は、カントの物自体を現象に解消したにすぎない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　「もっとも」以降は客観的概念の想定を否定する修正である。概念と実在の同一が真理であるから、概念と実在の不同一も存在する。そうでなければ実在と概念は同一であり実在はすべて真理である。&lt;br /&gt;　概念が実在を生み出すのであり、実在は概念との同一を全く欠くときは存立することはできない。そうなると、真実でないものはなんらかの点で概念に適合している、ことになる。つまり、なんらかの点で概念に適合していない実在もある、ということである。&lt;br /&gt;　全くあしきもの、あるいは全く概念に反するものは内的に破滅しつつあるものである、というのは、すべての存在は生成し消滅している、ということである。概念と一致しているのは存在していることであり、概念と一致しないとは消滅することである。ヘーゲルはすべての存在が生成し消滅している、という経験的な意識を、概念と存在の一致と不一致として表現している。肯定的に解釈すれば、概念は運動している、存在の背後にある運動が概念である、ということになる。しかし、論理学はこの運動の具体的な規定である。運動の具体的な規定である論理学を概念として想定しているのは、論理学の内容を規定できないことを意味している。ヘーゲルはカントの物自体の抽象性を超えるために物自体と存在(＝現象)の同一性を概念とした。だから、ヘーゲルの概念の内容は現象の規定である。つまり、ヘーゲルの概念の内容は経験科学の内容になる。物自体と現象を分離できなかったために、ヘーゲルは経験科学と論理学を分離できない。&lt;br /&gt;　また、物自体と現象の分離は質の運動の規定の原理であるから、この分離を解消すると質の他の質への運動を規定できなくなる。そのために本質の領域も概念の領域も、有の領域である運動一般の原理の規定になる。ヘーゲルの概念の規定は有的であり量的である。真理の規定において、「全く」などという量的な規定を使うこと自体論理の破綻である。当然そのあとには神についての妄想が続いている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二一四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．理念について言われるすべてのことが自己矛盾であることを示すのは、悟性にとってはわけのないことである。悟性にたいしても同じことをすることができる、というより、それはすでに理念のうちでなしとげられている。これは理性の仕事であって、もちろん悟性の仕事ほど容易ではないが。--悟性が理念の自己矛盾を指摘しようとして、例えば、主観的なものは単に主観的であって、客観的なものはむしろそれに対立しているとか、存在は概念とは全く別なものであり、したがって概念から取り出すことのできないものであるとか、あるいはまた有限なものはあくまで有限であってまさに無限の反対であるから、有限なものは無限なものと同一ではない、という風に、あらゆる規定を通じてその理由を挙げるとすれば、論理学はそれと正反対のことを指摘するものである。すなわちそれは、単に主観的であるにすぎないような主観的なもの、単に無限でなければならないような無限なもの、等々はなんらの真理をも持たず、自己に矛盾し、その反対のものへ移っていくことを示し、そしてこのことによってこの移行と、二つの端項を揚棄されたもの、仮象、モメントとして含んでいる統一とこそ、それらの真理であることを明かにするのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、対立するカテゴリーは、片方だけでは真理ではなく、反対のものへ移っていく。カントの悟性が分離したものをヘーゲルの理性は統一する。ヘーゲルは統一が真理であり、分離と統一を生み出すのが概念である、と考えている。&lt;br /&gt;　主観は客観に、客観は主観に、無限は有限に有限は無限に、相互に移行する。この移行において、両者は統一されており、統一において両者はモメントとして保存されている。このことを示すことがヘーゲルにとっての真理である。&lt;br /&gt;　存在するものすべては内部に矛盾をもっており、その矛盾によって対立物に移行する、というのは存在の基本原理である。したがって、存在するものの内部に対立するものを見出す、というのが経験科学の基本原理である。&lt;br /&gt;　存在するものの内部に対立を見出してその相互移行を規定するのは経験科学の課題であって、論理学の課題ではない。論理学は存在から他の質的存在への運動を、運動一般として、運動の一般原理だけを取り出して規定する。存在の内的矛盾によって存在を規定するのではなく、内的矛盾一般を存在一般の普遍として規定する。それがカテゴリーの自己運動である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは物自体と現象を分離できなかったために、存在に内在する具体的運動と、運動一般の原理としてのカテゴリーの規定を分離していない。このことがヘーゲルの体系とカテゴリーの具体的規定に混乱をもたらしている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは概念の領域で弁証法についての抽象的な形式規定をくり返している。ヘーゲルは本質の領域と概念の領域を有の領域と区別できない。そのために、弁証法の概観の記述が重要な意味を持つことになる。存在は生成し消滅する、だとか、悟性は分離するが理性は統一する、といった抽象的な規定が概念の領域でも意味を持つと考えるのは、概念の領域の論理の具体的な規定ができないからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．悟性が理念を取扱うとき、それは二重の誤解をする。第一に、理念の二つの端項は、それらがどう表現されようと、とにかく統一のうちにあるのであるが、悟性はそれらを具体的統一のうちになく、具体的統一の外にある抽象的なものと考える。それは、関係が明白に定立されている場合でさえ、それを看過するのであって、例えばそれは、個別的な主語について、個は同時に個ではなくて、普遍であることを述べている判断のコブラの本性さえ見落している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、悟性は、対立的なカテゴリーを分離する。例えば、AはBである、という判断がAとBの同一性を示していることさえ見落としている。ヘーゲルはこんなことをわざわざ書いているが、これは有の領域の内容であり、しかもヘーゲルは「b 判断」でこのことを指摘している。このあと、理念について、対立物を分離区別することにおいて永遠の創造であり生動である、といった無内容に大袈裟に記述している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．したがって理念は、それ自身抽象的悟性への移行、あるいはむしろ転化でありながら、同時に永遠に理性である。理念は弁証法であって、こうした悟性的なもの、区別されたものにその本性とその独立性の誤った仮象とを自覚させ、そしてそれを統一へ復帰させるのである。この二重の運動は時間的でもなければ、またいかなる点でも令離され区別されていないのであるから--もしそうであったら、理念は再び抽象的悟性にすぎないであろう--理念は他のもののうちで永遠に自分自身を直観するものである。すなわち、その客観性のうちで自分自身を実現している概念であり、内的な目的性、本質的な主観性で溢るところの客観である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、理念は自己を分割し、同時に統一する、と書いている。同じことの繰り返しである。このあとも概念そのものだけが自由で真の普遍である、といった空虚な規定を並べている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二一五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．理念は本質的に過程である。なぜなら、理念の同一性は、それが絶対の否定性であり、したがって弁証法的であるかぎりにおいてのみ、概念の絶対かつ自由な同一性であるからである。理念は、単一性である普遍性としての概念がまず自己を規定して客観性、すなわち普遍性の反対物となり、次に、概念を実体として持っているこの外面性が、それに内在する弁証法を通じて、主観性へ復帰するという経過である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、「理念は本質的に過程である」という規定は、理念が運動の原理であるように見える。同一性は否定であり、したがって弁証法的である、というのも運動の一般的規定である。ところが、ヘーゲルの運動は、普遍性としての概念から客観的な具体的存在へという対立物への移行と、主観における概念への復帰である。カントの形式で言えば、物自体から現象への移行と現象から物自体への復帰である。この関係においては、抽象的な物自体あるいは概念から、具体的な存在への移行が弁証法の基本原理になる。弁証法の基本原理は抽象の否定による抽象から具体への移行という単純な運動の繰り返しになる。だから、有の領域も本質の領域も概念の領域も、具体性が異なるだけで、運動の原理としては単純な否定と否定の否定の関係になる。そして、理念の領域では、否定によって統一へと復帰するために、有の領域の単純な運動原理が再び復活して運動の基本原理として理念に適用される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　概念の領域においてこうした抽象的な規定は余計なものである。ヘーゲルの論理は概念の領域に届かない。だからヘーゲルはこれまでに書いてきたことを大袈裟に大雑把に書き換えているだけである。理念は静止的でない、運動的である、主体的である、一面的でなく統一的である、といった指摘は無意味である。運動の原理についての抽象的な規定はヘーゲルの論理が概念の領域の論理を規定できないことを示している。&lt;br /&gt;　補遺は、次の全体的な説明で、無内容である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　レーニンは『哲学ノート』(岩波文庫)で次のように指摘している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　一般に、『論理学』の第二部(「主観的論理学」)の第三篇(「理念」)への序論およびそれに対応する『エンチクロペテイー』諸節(二一三--二一五節)は弁証法のおそらく最良の著述である。ちょうどここで、言わば論理学と認識論との一致がすばらしく天才的に示されている。(「哲学ノート」下巻173頁)&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　レーニンはこのあとヘーゲルのカント批判を引用してそれを高く評価している。レーニンが「理念」のこの部分を高く評価しているのは、論理学を認識論と考えているからである。その場合は、カントの物自体は空虚な抽象物として否定され、物自体は認識対象となる。この点はヘーゲルもエンゲルスもレーニンも同じである。物自体が認識対象となると、本質の領域と概念の領域の論理の規定は見失われる。そして、抽象的な運動の規定が弁証法の内容となる。&lt;br /&gt;　レーニンの弁証法についての指摘自体は正しい。しかし、弁証法の内容が抽象的で単純である。この限界を超えて論理を具体化するには、論理学を認識論から切り離す必要がある。その場合鍵になるのは、物自体と現象の分離である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二一六節から二二二節は特になし。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-1898429228554113861?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/1898429228554113861/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=1898429228554113861' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1898429228554113861'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1898429228554113861'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/02/blog-post_24.html' title='第三部 概念論 第二一三～第二一五節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-6329014611260737867</id><published>2011-02-20T23:09:00.001+09:00</published><updated>2011-02-20T23:10:06.920+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第二一一、第二一二節</title><content type='html'>　二一一節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．しかし有限な合目的性においては、実現された目的でさえ、媒介項や最初の目的がそうであったと同じように、自己のうちに分裂を含んでいる。したがってここに成就されたものは、見出された材料へ外的に加えられた形式にすぎない。そしてこの形式もまた、目的の限られた内容のために、同じく偶然的な規定である。したがって達成された目的は、一つの客観にすぎず、それはまた再び他の目的にたいする手段あるいは材料となる。こうした関係は限りなく続いていく。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ここでヘーゲルは、主観の合目的的活動、代表的には個別的労働過程が有限であること、それが無限の連鎖を作り出すことを指摘している。しかし、ヘーゲルは、無限と有限の関係については、悪無限の指摘と、対立が有限で一致が無限である、という規定を持ち出すだけである。概念の領域に特有の客観的な無限の規定に進むことができない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二一二節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．しかし目的の実現のうちで即自的に行われていることは、一面的な主観性とそれに対峙して存在している客観的独立性の仮象とが揚棄されるということである。手段を掴むということのうちに、概念は自分が客観の即自的に存在する本質であることを示している。というのは、機械的および化学的過程のうちで客観の独立性はすでに即自的には消失しているのであって、目的に支配されながらそれらが経過していくうちに、かの独立性の仮象、すなわち概念に対立している否定的なものは、揚棄されているからである。しかし実現された目的が単に手段および材料として規定されているということのうちには、この実現された目的である客観もすでに本来空無なもの、単に観念的なものであるということが定立されている。これとともに内容と形式との対立も消失してしまっている。目的は、形式的諸規定の揚棄によって、自己を自己と連結するのであるから、自己同一なものとしての形式は、このことによって内容として定立されており、したがって形式の活動としての概念はただ自己をのみ内容として持つのである。したがってこの過程によって目的の概念であったものが定立され、主客の潜在的な統一は顕在するものとなっている。これが理念である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、目的の実現は、手段によって客観を変化させることであるから、客観の独立性は否定され、客観は本来空無で単に観念的なものである、とヘーゲルは無理な解釈をしている。ヘーゲルはこうして解釈の上で客観の独立的存在を否定した上で、目的意識的活動の有限性を指摘しながらも、それを深く読み取れば主観と客観の統一であると指摘している。主観と客観の一致は解釈の問題に解消されている。客観の独立性の消失も、概念に対立する否定的なものの揚棄も、内容と形式の対立の喪失も、すべて解釈であり、主観と客観の対立は解釈によって概念の同一性に流し込まれている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　人間の個別実践過程、つまり労働過程において、ヘーゲルは主観と客観の同一性に移行している。これがヘーゲルの論理の限界である。個別的実践過程は有限であるから、この過程において主観と客観の無限的な一致に到達することはできない。個別的実践過程の無限の積み重ねによって客観との一致に到達する、というのも形式的規定である。&lt;br /&gt;　主観と客観の無限的な一致に到達するためには、論理的にもう一つの段階が必要である。主観と客観の同一性を定立する手段は、同時に主観と客観を決定的に分離する契機である。このことが本質の領域と概念の領域の分岐点になる。労働過程の手段による客観と主観の分離を媒介にしてのみ主観と客観の無限的な統一が可能になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　目的の有限性は、その実現に際して手段として用いられた材料が外的にのみ目的に包摂され順応させられていることにある。しかし実際には客観は即自的に概念なのであるから、概念が目的としてそのうちに実現されるということは、客観自身の内面の顕現にすぎず、客観性は、言わば、その下に概念がかくされている外被にすぎない。われわれは有限なもののうちでは、目的の真の達成を体験することもみることもできない。したがって無限の目的は、それがまだ達成されていないかのような錯覚を除きさえすれば、達成されるのである。善、絶対の善は世界において永遠に自己を実現しつつあるのであり、したがってそれはすでに即自かつ対自的に達成されていて、われわれを待つ必要はないのである。われわれは右に述べたような錯覚のうちに生活しているのであるが、同時にそれはまた世界における関心がそれにもとづいている活動力でもある。理念自身もその過程においてこうした錯覚を作り出し、自己に他者を対立させる。そして理念の行為はこうした錯覚を揚棄することにある。真理はただこうした誤謬からのみあらわれ出るのであって、この点に誤謬および有限性との和解がある。他在あるいは誤謬は、それが揚棄されるとき、それ自身真理の必然的なモメントである。真理は、自己を自分自身の成果とすることによってのみ、存在するのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、個人の主観的目的は有限であり、個別の目的意識的活動も有限である。この有限性を、客観が即自的に概念である、という想定によって超えることはできない。ヘーゲルは客観に形成される無限を規定できないために、客観は即自的に概念である、という想定を使っている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは概念の領域で形成される客観的な無限性を規定することができない。そのために、ヘーゲル哲学に特有の、現実は理性的である、という規定が出てくる。客観的な無限を規定できないヘーゲルは、ここではいつも批判している悪無限に頼っている。ヘーゲルの規定では、個別的な目的意識的活動が積み重ねられることによって絶対的真理が形成され、無限が実現されることになる。だから、絶対的真理、あるいは無限は過程である。「真理はただこうした誤謬からのみ現れ出る」というのは、誤謬の無限的な蓄積の過程において絶対的真理は現れ出る、ということである。真理が量的に規定されている。現実の過程は絶対的真理が現れ出てくる過程であるから、現実にすでに現れ出ていると解釈することができる、という意味である。これは運動の一般的原理であって、概念の領域に特有の無限性の規定ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲル論理学においては、個別的な目的意識的活動が主観と客観の同一性の到達点である。実際は労働過程は主観と客観の分離点であり、したがって一致の出発点である。分離は一致の形式である。客観的な無限性に飛躍するには、目的的活動の手段が、主観と客観を分離する契機であることを論理として規定しなければならない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルが概念として想定している無限性は、目的的活動によって生み出される社会法則である。社会法則は、生産力の発展によって規定されており、その生産力は生産手段の発展によって規定されており、その発展は人類の能力の合力として形成される。人類が初めて類の力を客観化し外化する。その上で、社会法則と自然法則の一致という無限的な一致の論理が生み出される。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-6329014611260737867?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/6329014611260737867/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=6329014611260737867' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/6329014611260737867'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/6329014611260737867'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html' title='第三部 概念論 第二一一、第二一二節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8664265603139804892</id><published>2011-02-17T21:31:00.001+09:00</published><updated>2011-02-17T21:32:22.013+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第二〇五節～二一〇節</title><content type='html'>　二〇五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．目的論的関係は、その直接態においてはまず外的な目的性であり、概念は前提されたものとしての客観に対峙している。したがってこの場合、目的は有限である。それは内容からいって有限であり、またそれがその実現の素材として見出さなければならない客観を外的な条件として持っている、という点からいって有限である。このかぎりにおいて目的の自己規定は形式的であるにすぎない。もっと厳密に言えば、直接態のうちには、自己へ反省したものとしての特殊性(これは形式規定としては目的の主観性である)、すなわち内容が、形式の統体性、主観性そのもの、概念と異ったものとしてあらわれる、ということが含まれている。この差別性が、それ自身の内部における目的の有限性をなしているのである。このことによって内容は制限されたもの、偶然的なもの、与えられたものとなり、客観は特殊なもの、見出されたものとなる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの規定は形式的である。目的と客観の関係は、まず対立からはじまって内的関係に発展していく、と指摘しているにすぎない。客観と対立する目的は、外的で主観的で有限である。目的と客観が対立している場合は、相互に対立者に制限されているから両者ともに有限である。また、目的が有限な素材を手段とする点においても有限である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは目的論的関係を規定するのではなく、単純なカテゴリーの関係を目的的関係に適用している。ヘーゲルは、外的＝対立＝有限＝直接的＝制限されたもの＝偶然的なもの＝与えられたもの＝特殊なもの＝見出されたもの、であるという昔ながらの規定をくり返しているにすぎない。&lt;br /&gt;　このように形式的に規定した後に、主観と客観の一致が無限で概念的で理念である、と規定される。これは目的というカテゴリーの規定ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　目的と言うと、普通人々は外的な合目的性しか考えない。この見方によれば、事物はそれ自身のうちに自己の規定を持っているのでなく、その外にある目的の実現のために使用され消費される手段にすぎないと考えられている。これは、一般的に言えば、効用の見地であって、かつては科学においてさえ大きな役割をつとめたことがあったが、やがて当然のこととして不信用におちいり、事物の本性を真に洞察するには不十分であることが認識されるようになった。有限な事物は究極的なものでなく、自己を越えた或る物を指示している、と考えるのはもちろん正しい。しかし有限な事物のこうした否定性は、有限な事物自身の弁証法であって、この否定性を認識するためには、まずその肯定的な内容に注意を向けなければならない。目的論的な考察法は、特に自然のうちに啓示される神の智慧を示そうとする正しい意図を持ってはいる。しかしわれわれは、事物が手段として用いられる諸々の目的を探し出すということは有限の立場を越えるものではなく、むしろ貧弱な反省におちいりやすいということを注意しなければならない。例えば、われわれが葡萄を人間に与える周知の効用の見地からみたり、コルクの木まで、その皮から切りとられた葡萄酒壜の栓との関係においてみたりするのは、それである。昔はすべての本がこうした精神によって書かれていたものである。こうした仕方で宗教や学問を本当に進歩させることができないのは、あまりにも明白である。外的な合目的性は理念のすぐ前に立っている。しかし入口に立っているものこそ、しばしば最も不十分なものなのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、外的目的、あるいは効用の見地とは、現象間の相互関係の結果を一つの現象の目的として規定することである。コルクの木は葡萄酒の壜の栓になるために存在するとか、ネズミは猫に食われることを目的に存在する、といった類の目的論である。&lt;br /&gt;　目的論は結果を目的として規定するから、目的論的関係においては、或る現象と他の現象の関係は外的関係になる。これは目的論の特徴である。目的論のこの特徴が分かりやすい形式で使われてそれが批判されると、それに対応して、外的目的ではなく内的目的が真の目的である、という規定が現れる。これも目的論の特徴であって、これによって目的論の限界を超えることはできない。&lt;br /&gt;　外的目的を超えるには、内的目的とは何かを規定しなければならない。あるものの内的目的とは、あるものの必然性である。だから、これは本質の領域で規定されている。そして、外的目的、あるいは効用の観点とは、必然性と他の必然性との関係であり、必然性と偶然性との関係である。&lt;br /&gt;　目的的関係は、必然性と偶然性の関係の形式的で外的な規定である。だから、内的目的というカテゴリーは必要ない。外的目的な内的目的に変えても概念になるわけではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　二〇六節、二〇七節、二〇八節&lt;br /&gt;　特になし。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二〇九節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．(3) 手段をもってする目的活動はまだ外へ向っている。なぜなら、この場合目的はまだ一面において客観と同一でなく、したがってこれから客観へ媒介されなければならないからである。手段は客観であるから、この第二の前提のうちで、推理のもう一つの端項、すなわち前提されたものとしての客観性、素材と直接的に関係している。この関係は機械的関係および化学的関係の領域であって、それは今や目的に仕えており、その真理および自由な概念が目的なのである。主観的目的は、客観的なものがそのうちで相互に磨滅しあい揚棄しあう諸過程を支配する力として、自分自身はそうした過程の外にありながらしかもそのうちに自己を保持している。これが理性の狡智である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主観は手段を媒介として客観と関係している。目的は手段を支配している。手段と客観の関係は客観内部の機械的関係および化学的関係の領域である。手段と客観は相互に磨滅しあい揚棄しあう関係であり、主観的目的はその諸過程の外にあってその諸過程を支配する力である。&lt;br /&gt;　これが有名な理性の狡知である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　理性は有力であるとともに狡智に富んでいる。その狡智がどういう点にあるかと言えば、それは、自分は過程にはいりこまないで、もろもろの客観をそれらの本性にしたがって相互に作用させ働きつかれさせて、しかもただ自分の目的をのみ実現するという、媒介的活動にある。この意味で、神の摂理は世界とその過程とにたいして絶対の狡智として振舞っていると言うことができる。神はさまざまの特殊な激情や関心を持っている人々を好きなようにさせておく。しかしその結果生じてくるものは神の意図の実現であって、それは神が手段として用いている人々が最初求めていたものとは全く別のものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、有名な理性の狡知にはヘーゲルの論理では解決できない問題が含まれている。理性の狡知は、実は主観的目的においては形成されない。主観が目的的活動をする場合は、諸過程の外にあって諸過程を支配するのではなく、その諸過程の中にあって自己をも消耗する。したがって、主観自身も客観に属する、つまり主観と客観が分離していない、と考えることができる。また、論理的には第二義的であるが、ヘーゲル以後の科学技術の発展によって、機械的関係および化学的関係の領域だけではなく、生命活動も手段の領域に入っている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　主観的目的、つまり労働過程においては、理性の狡知は生まれない。理性の狡知という相関が生まれるのは、社会法則においてである。ヘーゲルが「神が手段として用いている人々が最初求めていたものとは全く別のものである。」と書いていることの内容は、主観的目的は手段であって、実現されるのは主観的目的ではなく神の目的である、という意味である。だから、理性の狡知は、主観的目的と客観を一致させる力として働くのではなく、主観的目的を否定する力として働くものであって、これは本質の領域を超えた概念の領域で初めて登場する相関である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　神が人びとを手段として用いるというのはヘーゲルの観念論的な想定である。唯物論的に言えば、神ではなく、社会法則が目的意識を持つ人間を支配して、目的意識を超えた客観を必然性として生み出していく。しかし、ヘーゲルは個別の目的意識的活動と社会法則における実践の意義の区別を知らない。だから、ヘーゲルの論理は概念の領域に届かない。この領域の法則を初めて規定したのがマルクスである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　二一〇節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．目的の実現はかくして主客の統一の定立である。しかしこの統一は、主観と客観の一面性が中和され揚棄されたという意味でのみ、統一と言いうるのであって、客観は、自由な概念でありしたがって客観を支配する力である目的に、従属し順応させられている。目的は一面的な主観、すなわち特殊なものであるほかに、具体的な普遍、すなわち主客の即自的な同一でもあるから、目的は客観的なものにたいして、また客観的なもののうちで、自己を保存するのである。この普遍は、単に自己へ反省したものとしては、内容であり、これは推理の三つの項およびそれらの運動を通じて常に同一にとどまっている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、目的の実現は主観と客観の統一である。この統一は客観が目的に従属し順応する統一である。つまり、主観的概念の客観への移行である。だから、この統一＝移行において、主観的目的は特殊なものであるだけでなく、客観へ移行した具体的な普遍である。&lt;br /&gt;　これはこれまでの繰り返しである。概念の領域ではヘーゲルの論理は形式的になって具体化されない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルはこのように主観と客観の統一において具体的普遍が実現されると考えている。実際は、手段によって主観と客観は分離される。ヘーゲルの概念の領域はこの分離を含まないので形式的になり、全体として有の領域と同じ内容になる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8664265603139804892?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8664265603139804892/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8664265603139804892' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8664265603139804892'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8664265603139804892'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/02/blog-post_17.html' title='第三部 概念論 第二〇五節～二一〇節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-7560501036592692088</id><published>2011-02-13T17:50:00.001+09:00</published><updated>2011-02-13T17:51:39.616+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第二〇四節</title><content type='html'>　二〇四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.目的とは、直接的な客観性の否定によって自由な現存在へはいった、向自的に存在する概念である。目的は主観的なものとして規定されている。というのは、上述の否定は最初は抽象的であり、したがって最初は客観性もまた単に対立しているからである。こうした主観性という規定性は、しかし、概念の統体性とくらべると一面的であり、しかも目的そのものにたいしても一面的である。なぜなら、目的のうちには、あらゆる規定性が、揚棄されたものとして、定立されているからである。したがって目的にとっても、前提されている客観は観念的な、本来空無な実在にすぎない。目的は、そのうちに定立されている否定と対立とにたいするその自己同一の矛盾であるから、それ自身揚棄であり、対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する活動である。これが目的の実現であって、そのうちで、目的はその主観性の他者になり、自己を客観化することによって、両者の区別を揚棄し、もって自己を自分自身とのみ連結し、自己を保存しているのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、目的のカテゴリーの内容は必然性と偶然性のカテゴリーに含まれている。目的のカテゴリーは経験的な意識から取り出されたもので、必然性と偶然性のカテゴリーが十分に規定されていないために生き残っているだけである。目的のカテゴリーは論理学には必要ない。だから、ヘーゲルの考え方を簡単に紹介しておくことにする。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　目的は直接的な客観性を否定して自我にまで到達した概念のことである。目的は主観的である。主観的とは、主観が客観と対立しており、抽象的な否定に止まるという意味である。この意味で主観的な目的はまずは一面的である。&lt;br /&gt;　主観的概念が定立する目的は、主観から客観への移行の第一歩である。目的が客観を否定して自己化することが目的の実現であり主観と客観の一致である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　以上は、人間の目的意識的な実践のことを言っている。広くは、動物が客観の何かを食べる生命活動をも含んでいる。特に複雑な内容を含んでいる訳ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．目的という概念は、一方では余計なものとされているが、他方では正当にも理性的概念と呼ばれて、特殊にたいして包摂的にのみ関係し特殊をそれ自身のうちに持っていない悟性の抽象的普遍に対立させられている。--さらに目的原因としての目的と単なる作用原因、すなわち普通に原因と呼ばれている原因との区別はきわめて重要である。原因はまだ顕示されていない盲目的な必然に属する。だからそれは、その他者へ移行し、被措定有のうちでその本源性を失うものとしてあらわれる。原因が結果のうちではじめて原因であり、自己へ復帰するということは、単に潜在的なことがらにすぎない。言いかえれば、われわれがそれを見出さなければならないものにすぎない。目的はこれに反して、それ自身のうちに規定性を含んでいるもの、言いかえれば、因果関係のうちではまだ別なものとしてあらわれているところの結果を含んでいるものとして定立されている。したがって目的は、その作用のうちで他のものへ移行することなく、自己を保持する。すなわち、目的は自分自身をのみ結果するものであって、終りにおいてはじめの、すなわち、本来の姿を保っている。こうした自己保持によってはじめて、真に本源的なものは存在するのである。--目的は思弁的に理解されなければならない。というのは、それは、諸規定の統一および観念性のうちに本源的分割あるいは否定、すなわち主観的なものと客観的なものとの対立を含みながら、同時にまたその揚棄でもあるところの概念であるからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、作用因は因果関係である。目的は結果を意識する主観と客観の関係である。この関係では目的が原因になる。主観と客観の関係は、本質の領域より複雑な高度のカテゴリーを内容とする。必然性と偶然性の関係をより複雑にした客観と自我との関係を目的意識との関係に解消するのは余計な単純化である。因果関係である作用因との対立的カテゴリーとして規定することにすでに目的のカテゴリーの限界が現れている。この問題に限れば結果として規定するのが合理的である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．人々は目的という言葉によって直ちに、あるいは単に、表象のうちにある一つの規定としてそれが意識のうちに存在する形式を考えてはならない。内的な目的性という概念によって、カントは、理念一般、特に生命という理念を再びよびさましたのである。生命にかんするアリストテレスの規定は、すでに内的な目的性を含んでおり、したがってそれは、有限な、外的な目的性をのみ考えている近世の目的論の概念よりも、限りなく高い立場に立っている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、すべての生命に独自の内的目的がある、ということは必然性として規定すればよい。生命の内的目的と外界との関係は必然性と偶然性の関係である。&lt;br /&gt;　したがって、内的目的というカテゴリーは余計なカテゴリーである。内的目的と外的目的、あるいは内的目的と外的関係を対立させても、内的目的そのものの規定は出てこない。内的目的は外的目的ではない、と規定されることによって、必然性が規定されなくなる。内的目的というカテゴリーは、必然性と偶然性の関係の一面を抽象的、形式的に規定したものである。だから、必然性と偶然性の関係を規定すれば内的目的というカテゴリーは必要なくなる。外的な目的性より内的な目的性が限りなく高い立場である、というのは空虚な形式規定である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．欲求、衝動は目的の最も手近な例である。それらは、生きた主体自身の内部でおこる矛盾が感じられたものであり、まだ主観的なものにすぎないこの否定性を否定しようとする活動へ移っていく。満足は主観と客観とのあいだに平和を作りだすが、これは、矛盾がなお存在しているかぎり、欲求の彼方に立っている客観を主観と合一させ、その一面性を揚棄することによって行われるのである。--有限なものが不変であり克服できないと主張し、主観的なものはあくまで主観的であり、客観的なものはあくまで客観的であると主張する人々は、あらゆる衝動のうちに、全く反対の実例を見出すわけである。衝動とは、主観的なものは一面的であって、客観的なものと同様になんらの真理をも持たないという確信であると言うことができよう。しかもそれはさらにこの確信の遂行であって、それは、あくまで主観的なものにすぎない主観的なもの、およびあくまで客観的なものにすぎない客観的なもの、という対立および有限性を揚棄するにいたるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、欲求、衝動は生きた主体の必然性である。この必然性と外的な事物の必然性の関係は、必然性と必然性の関係、つまり生きた主体に即して言えば、必然性と偶然性の関係である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．目的活動についてさらに注意すべきことは、目的活動は実現の手段を通じて目的をそれ自身と連結するという推理であるが、この推理においては本質的に三つの項の否定が見出されるということである。この否定は上述の、目的そのもののうちに見出される直接的な主観性および直接的な客観性(これはさらに手段と前提された客観とから成る)の否定にほかならない。それは、精神が世界の有限な諸事物や個人的な主観性を去って神へまで高まるときに行われるのと同じ否定である。このモメントが、序論及び一九二節にも述べたように、いわゆる神の存在の証明のうちでこの高揚に与えられる悟性推理の形式においては、看過され除去されているのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、目的を実現するためには、手段が必要である、ということ。つまり、主観が客観に働きかける場合に手段を媒介する、ということである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-7560501036592692088?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/7560501036592692088/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=7560501036592692088' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/7560501036592692088'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/7560501036592692088'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/02/blog-post_3488.html' title='第三部 概念論 第二〇四節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-2711619939094183033</id><published>2011-02-13T16:44:00.002+09:00</published><updated>2011-02-13T16:44:54.295+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一九四節</title><content type='html'>　一九四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.客観は直接的な存在である。なぜなら、客観においては区別が揚棄されているために、客観は区別にたいして無関心であるからである。それはさらに自己のうちで統体をなしているが、同時にこの同一は諸モメントの即自的な同一にすぎないから、それはまたその直接的な統一にたいしても無関心である。かくしてそれは諸区別へ分裂し、その各々がそれ自身統体である。したがって客観は、多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾である。&lt;br /&gt;　　絶対者は客観であるという定義は、ライプニッツのモナドのうちに最も明確に含まれている。モナドは各々一つの客観であるが、しかし即自的に表象するものであり、しかも世界の全体を表象するものである。その単純な統一のうちでは、あらゆる区別は単に観念的な、非独立的な区別として存在するにすぎない。モナドのうちへは何ものも外からはいってこない。それは自己のうちで全き概念であり、ただ概念自身の発展の多少によって区別されるにすぎない。またこの単純な全体は無数の区別にわかれ、それらは各々独立のモナドである。諸モナドのモナドおよび諸モナドの内的発展の予定調和において、これらの実体は再び独立を失い観念的となる。かくしてライプニッツの哲学は完全に展開された矛盾である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、現実の個別存在は、個別として独立していると同時に相互に関係している、というだけの意味である。「客観は、多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾である。」というのは、大袈裟なだけで深い意味はない。&lt;br /&gt;　このあと二〇三節まで学ぶべき内容はない。客観については、経験科学がヘーゲルの時代よる遥かに発展しているから、それを研究する方が有益である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-2711619939094183033?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/2711619939094183033/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=2711619939094183033' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2711619939094183033'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2711619939094183033'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/02/blog-post_13.html' title='第三部 概念論 第一九四節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8924009451466205630</id><published>2011-02-10T22:30:00.002+09:00</published><updated>2011-02-10T22:31:02.496+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一九三節</title><content type='html'>　一九三節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.　このように概念が実現された場合、前節に述べたように、普遍者は自己のうちへ復帰した一つの統体をなし(この統体の諸区別も同じくこうした統体をなしている)、そしてこの統体は媒介の揚棄によって自己を直接的な統一として規定している。概念のこうした実現がすなわち客観である。&lt;br /&gt;　主観すなわち概念一般から、もっとはっきり言えば、推理から客観へ移っていくということは、特に人々が悟性推理、および意識の作用としての推理を念頭においている場合には、一見非常に奇妙に思われるであろうが、しかし、この移行を表象にも納得できるようにしようとする必要はない。ここで問題となりうるのはただ、客観と呼ばれているものにかんする普通の表象が、ここで客観の規定をなしているものと大体一致しているかどうかということである。人々は普通客観という言葉のもとに、単に抽象的な存在とか、現存在する物とか、現実的なもの一般ではなく、具体的で自己のうちで完結している独立的なものを理解している。この完全性こそ概念の統体性なのである。客観はまた対象であって、他のものにたいして外的なものであるという規定性は、後にそれが主観的なものへの対立のうちに定立されるとき、明かにされるであろう。ここではまずそれは、概念が自己の媒介からそのうちへ移っていったものとして、単に直接的な客観にすぎない。概念も同じく、後にそれが対立のうちにおかれるようになってはじめて主観的なものとして規定されるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念は自己を実現して客観となり、客観のうちで直接的な統一体としての独立的な存在となっている。客観が独立的な完全性を持つことの意味は概念の統体性である。客観が概念の実現体であり概念の総体性であることは理解されていないにしても、客観は普通の表象においても、それ自身として独立的な統一者であると理解されている。&lt;br /&gt;　客観の第二の特徴は主観の対象として存在することである。この特徴は後に主観との対立のうちにおいて定立される。主観との対立が定立されるまでは、客観は単に直接的な客観である。主観もまた客観との対立おいてはじめて主観として定立される。&lt;br /&gt;　ヘーゲルはこうして、主観と客観が二元論として前提されるのではなく、概念の展開として形成され、主観も客観も相関関係において初めて定立されるとしている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.さらに客観は、まだ自己のうちで規定されていない一つの全体、客観的な世界一般、神、絶対の客観である。しかし客観はまた自己のうちに区別を持ち、客観的な世界として不定数のさまざまなものにわかれる。そしてこれら個別的なものの各々もまたそれぞれ一つの客観であり、自分自身のうちで具体的な、完全な、独立的な定有である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは、客観は概念と同一であるとともにその外化であるとした上で、次に客観は、世界一般、絶対の客観という抽象であると同時に、自己内に区別を持つ無数の個別存在でもあり、その個別存在のそれぞれが独立している、と指摘している。ヘーゲルが客観の抽象と個別、あるいは無限と有限を問題にするのは、主観が客観の抽象と一致するだけでも、個別存在と一致するだけでも主観と客観の一致ではない、と考えるからである。客観自身が個別と普遍、有限と無限の対立を含んでいるために主観と客観の一致が哲学上の難問になる。&lt;br /&gt;　ヘーゲルはこのあと、本質の領域における現実性は抽象的であり、自己内での統一にすぎない、客観は区別が統一となったもの、つまり主観と客観が統一されたものである、とした上で、主観から客観への移行を、抽象と具体の対立に関係させて展開している。これは非常に重要な指摘であるが、同時にここにヘーゲルの限界がある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.これらすべての移行において、ただ一般的に概念あるいは思惟が存在から離しがたいものであることを示すだけではたりないのは明かである。すでにしばしば注意したように、有とは単純な自己関係にすぎず、こうした貧しい規定はもともと概念、否思惟のうちにさえ含まれている。しかしこれらの移行の意義は、単に含まれているままの諸規定をとりあげるということではない(有は実在性の一つであるという命題によって神の存在論的証明においてさえ行われているように)。それはまず概念を、有や客観というような別の抽象物とはまだ全く無関係に、概念そのものとして考察し、あくまで概念本来の規定性としてのその規定性に即しながら、この規定性が、概念に属し、概念のうちにあらわれている規定とはちがった形態へ移っていくかどうかをみ、また実際に移っていくのをみることにある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、客観も主観も概念の外化によって生まれた概念の契機であるから、主観と客観が同じものであり離れ難く一致していることは明かである。しかし、概念が外化して主観となり客観となり、同じ概念が別の形態へと移行しているのだから、同じ概念であると同時に違うことも明らかである。だから、主観と客観が同じである、とするだけでは主観と客観の関係についての十分な規定ではない。それは抽象的な即自的な一致である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　主観と客観はその存在＝有の抽象性において一致している。しかし、有は単純な自己関係であり、有という抽象的な貧しい規定はすべての存在に含まれている。すべてに含まれている有という一点で一致を規定することは抽象的な形式的な一致である。概念は概念として、その外化における具体化において規定しなければならない。概念の具体的な規定が、概念内部の規定とは違ったものである客観に移行できるかどうか、また移行するものであることを規定することが両者の一致の規定である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ここで問題になっているのは、主観と客観は抽象においては一致するが、それでは不十分で、具体的規定においても一致しなければならない、ということである。存在一般の諸規定を排除していくと、抽象的な有＝存在になる。この点では主観と客観だけでなくすべての存在が一致する。この絶対的な抽象に到達したのちに、再び純粋概念は自己を外化し自己を具体化して、その具体性において、主観と客観の一致を作り出すことになる。こうしてヘーゲルの体系においては、抽象から具体の全行程において、すべてが抽象的にだけでなく具体的にも一致することになる。&lt;br /&gt;　しかし、この方法では主観と客観、普遍と個別、無限と有限といったカテゴリーの一致を規定することはできない。ヘーゲルはこうしたカテゴリーの対立を具体的に整理して体系化し、すべてを統一すべきである、という当為を掲げている。それが弁証法の基本原理として有名な対立物の統一である。&lt;br /&gt;　存在の具体的規定性を否定して純粋有に到達した後に、再び剥ぎ取った規定の再構成に引き返すことでは、対立的なカテゴリーの具体的な関係を規定することはできない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルが単純で貧しい規定と考えている有は、諸規定を抽象した空虚な単純体という意味を持つのではない。諸規定を否定した有は、運動の基本原理に転化する。だから、純粋有に到達した後は、有を出発点として運動の規定へと移行しなければならない。そのことによってのみ、ヘーゲルが当為として掲げている対立物の統一を規定することができる。ヘーゲルは対立物の規定に到達しているが、その統一を規定することはまだできていない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.この移行の産物である客観を、客観のうちでその特有の形式を失っている概念と関係させる場合、その結果を表現して、概念と--これはまた主観性と言ってもいい--客観とは即自的には同じものであると言うのは正しい。しかしまた両者が異っていると言うのも同様に正しい。一方が他方と同様に正しいということは、まさに一方が他方と同様に正しくないということであって、こうした表現の仕方は本当の関係を言いあらわすことができない。概念そのものは一面的であって、その一面性は、それに対立している一面性であるところの客観へ移っていくことによって、自己を揚棄するのであるが、上に述べた即自は抽象物であり、しかも概念そのものよりなお一面的な抽象物である。したがってこの潜在性も自己を否定して自己を顕在性へと規定しなければならない。あらゆる場合にそうであるように、思弁的同一は、概念と客観とが即自的に同一であるというような、平凡な同一性ではない。このことは幾度となく繰返して注意したことであるが、この同一にかんする浅薄な、そして全く悪意の誤解をなくしようと思えば、幾度繰返してもなおたりないであろう。そしてここにもう一度それを繰返しても、やはりその見込はないのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主観も客観も概念の移行の産物である。だから、概念も主観も客観も同一である。しかし、これだけでは同一性の規定ではない。概念は外化して、主観となり客観となって変化しているのであるから、その変化においてどのように一致しているかを規定すべきである。ヘーゲルはここでも同じことをくり返している。&lt;br /&gt;　主観から客観への移行を目的として規定する場合は、派生的な関係の規定であるから分かりやすくなる。しかし、主観と客観の一致を抽象的に考察すると一致を規定することは難しい。それは例えば、バナナと果物がどのように一致するか、という問題である。この問題は本質の領域の課題であるが、ヘーゲルは本質の領域でこれを規定しておらず、抽象的な対立の統一を弁証法として展開している。&lt;br /&gt;　それでヘーゲルは、次のように展開していく。&lt;br /&gt;　客観へ移行した概念と概念そのものは、即自的には同じである。概念が客観＝現実に移行することによって自己を顕在化して規定された概念へと移行している場合は、主観的概念と客観との一致は、この具体化された概念との一致である。だから、概念と客観が即自的に一致している、というのは正しいが、それは抽象的な一致にすぎない。本当の一致は、具体的な一致である。具体的な一致とは対立を含んだ一致である。対立を揚棄した一致である。&lt;br /&gt;　こうして具体的に規定できないところには、対立物の統一と揚棄が入ってくる。しかし、それは規定ではないから、対立物の統一と揚棄は常に同じことの抽象的なくり返しになる。&lt;br /&gt;　有は主観と客観と概念にとって即自的に同じである、と規定するかぎり、主観と客観だとか個と普遍の一致を規定することはできない。有を規定を持たない抽象物と考える場合は、有を運動の原理として捉えていないことになるからである。有においてすべての存在は即自的に同一である、という形式的抽象は意味を持たない。主観にも客観にも存在する絶対的なものは概念ではなく運動である。この運動の原理に移行しないかぎり、主観と客観の移行は認識論の規定になり、論理的な規定はできなくなる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.--われわれが今そのうちに立っている諸規定にしたがえば、有限な事物とは、その客観性がその思想、すなわちその普遍的規定、その類、およびその目的に一致していないものである。デカルト、スピノザ、等々は、この同一をより客観的に言いあらわしているが、しかし直接的確実性あるいは信仰の原理を主張する人々は、むしろアンセルムスの主観的な仕方にしたがって、この同一を、神の存在という規定がわれわれの意識のうちで神の表象と不可分に結びついているという意味に理解している。信仰の原理をとる人々は、また外的な有限な事物の表象についても、それが直観のうちで存在と結びついているという理由で、その意識とその存在とは不可分であると考えているが、これは一応正しい。しかし、もしかれらが、われわれの意識のうちで存在が、神の表象に結びついていると同じ仕方で、有限な事物の表象と結びついていると考えているとしたら、それは甚しい無思想と言わなければならない。もしかれらがそんなことを考えているとしたら、かれらは、有限な事物は変化し消滅するものであること、言いかえれば、存在がそれらと結びついているのは一時的にすぎず、その結合は永遠でなく分離しうるものであることを、忘れているのである。だからこそアンセルムスは正当にも、有限な事物にみられるような結合を無視して、単に主観的にだけでなく同時に客観的にも存在するものをのみ完全なものと言ったのである。いわゆる本体論的証明や完全なものについてのこうしたアンセルムス的規定をどんなに軽蔑しても、それは無益である。それはあらゆるとらわれない良識のうちに存在しており、またあらゆる哲学において、そうした意志もなくまたそれと気づかなくてさえ、直接的信仰の原理におけるように、帰ってくるからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主観と客観の一致の問題における困難は、主観も客観も両者の関係も運動していることにある。ヘーゲルは、有限な事物とは「その客観性がその思想、すなわちその普遍的規定、その類、およびその目的に一致していないものである。」と書いている。この文章は、より厳密には、運動する存在は、普遍＝類と個別存在の分離と統一として規定される、ということである。客観的な存在は個別存在であると同時に普遍である。個別、有限というのは運動において消滅する形式のことである。しかし、その形式が消滅するのであって存在が消滅するのではないから、個別の消滅の背後の存在が普遍として規定される。この普遍とは有限で消滅するものの背後にあって無限で消滅しないものである。&lt;br /&gt;　運動する存在をこのように規定した場合、個別存在と普遍、有限と無限はどのように一致するのかが難問になる。これが難題になるのはどのように一致するかを規定することが課題ではないからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　客観が、客観的世界一般、世界の全体、神、といった抽象的な規定である場合は、客観は抽象的普遍である。この場合は、抽象的普遍である客観と抽象的普遍としての概念、さらには抽象的普遍としての主観的概念は一致している。主観と客観の抽象的な一般的な一致を、アンセルムスは信仰の原理として、デカルト、スピノザ、はより客観的に言いあらわしている。&lt;br /&gt;　しかし、有限な事物は変化し消滅するものであるから、有限な存在としての具体的客観と主観的概念の一致は一時的にすぎず、一致は永遠ではなく分離するものである。完全なものとは、主観と客観の一致であるが、両者ともに存在する、という抽象的な一致ではなく、具体的に一致していることを証明し規定しなければならない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.しかしアンセルムスの証明の欠陥は--デカルトやスピノザ、および直接的信仰の原理も同じ欠陥を持っているのであるが--最も完全なものとか、あるいはまた主観的に、真の知識とか言いあらわされているこの統一が前提されているということ、すなわち単に即自的なものと考えられているということにある。こうした抽象的な同一性には、とっくにアンセルムスにたいして行われているように、すぐ二つの規定の差別が反駁に持ち出される。言いかえれば、有限なものの表象および存在が無限なものの反駁のために持ち出される。というのは、前にも述べたように、有限なものは客観ではあるが、同時にその目的、本質および概念に一致していず、それと異っているような客観だからである。別な言葉で言えば、それは存在を含んでいないような表象であり、そうした主観的なものだからである。こうした異論や反駁はただ次のようにしてのみ克服される。すなわち、有限なものは真実でないものであること、二つの規定は単独では一面的であり空無なものであること、したがって両者の同一は、両者がそれ自身でそのうちへ移っていき、そこで両者が宥和されているような同一であること、を示すことによってのみ克服される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主観と客観は抽象的で無規定であれば、直接的にあるいは即自的に一致している。この場合統一は前提されているのであり、証明されているのではなく、規定されていないし規定することはできない。&lt;br /&gt;　このような一致の主張に対しては、主観あるいは概念の抽象性＝普遍に対して、客観の具体性が対立物として持ち出される。主観的概念＝普遍は無限者であるが、客観的な個別存在は有限であり消滅するものである。有限なものは無限ではない。有限なものと対立する無限なものは、存在＝有限を含んでいない、つまり主観的であり有限である、という反論が生まれる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルは、こうした異論に対して、両者は単独では一面的で空無であること、両者の同一、両者の相互移行と宥和を示すことが一致の証明であり実現である、と主張する。しかし、ヘーゲルは主観と客観、個と普遍、有限と無限の相互移行、あるいは対立と統一を規定していない。一方に固執すると矛盾に陥ることを説明した上で、両者の統一が真理だと主張するだけである。そのために、対立物の統一が弁証法の基本原理になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　認識とは対象の普遍の規定であり、対象の普遍との一致である。有限な事物が有限であるのは、存在しなくなるからである。普遍はその背後に存在する、と考えられる。そうすると個別存在と普遍の関係が問題になる。意識は普遍であり普遍は変化しないから、普遍と意識は一致する。しかし、個別存在と一致しない。だから、アンセルムスもデカルトもスピノザも、絶対者だけが認識できるし、絶対者だけが存在する、と言った。とすると、個別存在はどこにいったのか、ということになる。&lt;br /&gt;　この問題を解決するために、個別と普遍を一致させるのがヘーゲルの間違いである。個別と普遍は常に対立している。個別と普遍の対立は運動の原理である。ヘーゲルは存在の規定に止まったまま両者の移行と一致を規定している。そのためにヘーゲルには無理なこじつけが生まれる。個別と普遍の対立と一致によって個別を規定することはできない。個別と普遍の対立を一致させるのではなく、個別と普遍の分離と対立は運動の原理であることを理解し、運動の原理を具体的に規定することが課題である。個と普遍の一致をいくら追求しても一致に到達することはない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8924009451466205630?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8924009451466205630/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8924009451466205630' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8924009451466205630'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8924009451466205630'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/02/blog-post_10.html' title='第三部 概念論 第一九三節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-1866851426546068223</id><published>2011-02-06T18:53:00.001+09:00</published><updated>2011-02-06T18:54:09.197+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一九一、二節</title><content type='html'>　一九一節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.単に抽象的な諸規定からみればこの推理は、反省の推理が第二格にしたがって個を媒介項としているように、第三格にしたがって普遍を媒介項としている(一八七節)。もっとも、この普遍はそれ自身のうちで本質的に規定されているものとして定立されている。(1) まず定言的推理においては、特殊が媒介規定であって、この特殊は特定の類あるいは種という意味を持っている。(2) 仮言的推理においては、個が媒介規定であって、この個は直接的な存在、媒介するものでもあれば、媒介されるものでもあるという意味を持っている。(3) 選言的推理においては、媒介の働きをする普遍が、またその特殊化の総体、個々の特殊、排他的な個として定立されている。したがって選言推理の諸規定のうちには、形式をのみ異にして同一の普遍が存在している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、必然性の推理においては、「普遍はそれ自身のうちで本質的に規定されているものとして定立されている。」つまり、普遍と特殊と個が、普遍の系列として相互に関係している、という意味である。反省の判断における普遍は全称という量的な規定であった。必然性の推理では、普遍と普遍が普遍の系列として相互に関係している。だから、普遍は普遍によって規定されており、普遍は具体的普遍である。&lt;br /&gt;　必然性の推理は、定言的推理と仮言的推理と選言推理である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　必然性の推理は一般的に言えば、普遍と普遍の無限の系列的な関係の中から三つの系列を切り取って規定したものである。普遍は経験的な意識によって形成される。ところが、個と普遍、普遍と普遍は分離している。この分離している普遍を、ゆえに、という形式で繋ぐのが推理である。推理は論理学ではない。というのは、論理学はこの「ゆえに」の部分を取り出して規定する学問だからである。論理学は普遍を運動として規定する。普遍と普遍の関係を規定することによって、経験的な意識によって形成された普遍の規定を改変するのが論理学である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一九二節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.補遺　普通の論理学では、推理論とともに、いわゆる原理論をなしている第一部が終り、これに第二部としていわゆる方法論が続いている。そして方法論において示さるべきものは、原理論で取扱われた思惟の諸形式を現存する諸客体へ適用することによって、いかにして一つの全体的な学問的認識が作り出されるかということである。これらの客観がどこから来るか、一般に客観性という思想はどういうものなのか、これについては悟性的論理学はそれ以上何の説明も与えない。そこでは思惟は単に主観的で形式的な活動と考えられており、思惟に対峙している客体はなんら主観の影響を受けぬ独立の存在と考えられている。しかしこうした二元論は真理ではない。このように主観惟と客観性という二つの規定を無造作に受け入れて、その起源を問わないのは、無思想な仕方である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、普通の論理学は認識論である。原理論は認識自身の原理、法則である。この原理に基づいた方法とは、この原理と客観的世界の関係、つまり、客観的世界に認識の原理を適用する方法である。正しい認識原理に基づいて、客観的世界に正しく適用すると、全体的な学問的認識が作り出されることになる。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは、認識主観と客観をこのように理解する場合は、認識と客観は一致しない、と考える。普通の論理学は、主観と客観を独立したものと考えた上で両者の対応関係だけを問題にしている。ヘーゲルは、独立に存在する客観的世界を認識主観が反映する、という一致の関係を二元論と考え、この関係における対象認識を「単に主観的で形式的な活動」と考えている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの体系では認識主観と客観は二元的な存在ではない。これまでの論理学は、主観と客観とはどのようなもので、どこからくるのか、客観性とは何かを問題にしていない。認識主観と客観の両者を独立したものと捉えて、客観が主観に取り込まれる関係をもって一致とすることが、普通の論理学の基本的な間違いである。主観と客観とは何か、つまりその由来を明かにしなければ両者の関係を規定することはできない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは主観と客観が同じ由来を持つことにおいて、つまり一元論において一致する関係を明かにすべきだと考えている。これは主観を出発点とする近代哲学の課題である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.主観性も客観性も明かに思想であり、しかも規定された思想であるから、われわれはそれらを自分自身を規定する普遍的な思惟にもとづいているものとして示さなければならない。このことは、これまで述べたところにおいて、まず主観性にかんして行われた。われわれは主観性すなわち主観的概念を--これは概念そのもの、判断、および推理をそのうちに含んでいるが--論理的理念の最初の二つの主要段階、有および本質の弁証法的成果として認識した。概念が主観的、しかも単に主観的であると言うのは、全く正しい。なぜなら概念は主観性そのものであるからである。さらに判断および推理も、概念そのものにおとらず、主観的なものである。そしてこれら三つの規定は、いわゆる思惟法則(同一、区別、および根拠の法則)とともに、普通の論理学ではいわゆる原理論の内容をなしている。しかし、概念、判断、および推理という以上三つの規定から成っているこの主観性は、独立に存在している客体によって外部から充実されねばならない空虚な区劃ではなく、主観性そのものが、弁証法的なものとして、自己の制限をうち破り、推理を通じて客観性への道をひらくのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの体系では、主観的概念も客観的世界も概念のモメントであり、概念が外化して自己を具体化し規定したものである。この体系によると、主観と客観は前提された独立的存在ではなく、同じ概念から出てきた、概念の具体的なモメントとして規定することができる。主観と客観は同じ概念の違ったモメントである。&lt;br /&gt;　客観的概念は有および本質の領域を経由して主観的概念に到達した。その主観的概念の内容は判断と推理において具体的に規定された。この内容は未だ主観的であり、普通の論理学では原理論の内容をなしている。主観内部の概念を規定しただけでまだ客観との関係を含まない段階にある。&lt;br /&gt;　普通の論理学の方法論では、この主観性の原理が、独立に存在する客観を反映し、受け入れることによって自己を充実するというのが主観と客観の関係である。しかし、ヘーゲルの体系では、有の領域から本質を領域を経て主観的概念に到達したことになり、この後概念は自己の発展に従って主観的概念の限界を破り、自己運動として客観への道を切り開くことになる。&lt;br /&gt;　ヘーゲルにとっては、主観性から客観性への移行が概念の外化の過程であり、この過程が両者の具体的な一致の過程である。したがって、主観と客観の一致は、主観が客観を反映する、客観の内容を主観が取り込む、という関係とは逆の方向をとることになり、主観が客観に移行することが両者の一致である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの体系では、主観的概念も客観も即自的には同じ概念である。概念の具体化のモメントとして対立している。同じ概念のモメントとしての一致は、対立したものの運動としての一致になる。ヘーゲルの場合は、一般に対立物の一致には二つの形式がある。直接的な抽象的な一致と具体的な一致である。具体的な一致とは対立を含んだ一致である。ヘーゲルは主観と客観の関係についてこのことをくり返し強調している。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-1866851426546068223?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/1866851426546068223/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=1866851426546068223' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1866851426546068223'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1866851426546068223'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/02/blog-post_06.html' title='第三部 概念論 第一九一、二節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-1723404063620306448</id><published>2011-02-03T21:25:00.001+09:00</published><updated>2011-02-03T21:27:00.317+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一九〇節</title><content type='html'>　一九〇節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、推理の形式は、経験的な意識における個と普遍、あるいは普遍と普遍の関係の規定である。ヘーゲルの抽象的で分かりにくい説明を、分かりやすく経験的な形式に変えておくことにする。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　反省の推理には三つの推理がある。全称推理(演繹)と、帰納推理と、類推、である。&lt;br /&gt;　(1)全称推理は、普遍--特殊--個の関係である。例えば、&lt;br /&gt;　「すべての人間は死すべきものである、ガイウスは人間である、ゆえにカイウスは死すべきものである」、&lt;br /&gt;　全称推理の大前提＝普遍は、すべての個の規定である。「すべて」という言葉は直接的な個を表現している。だから大前提は、カイウスは死すべきものである、という結論を含んでいる。こうした推理は無意味な形式主義である。&lt;br /&gt;　この推理は認識論として形式主義である。論理学にはこんな問題は存在しない。論理学は「すべて」というカテゴリーを規定する学問である。すべての人間が死ぬかどうか、カイウスが死ぬかどうか、は経験科学の課題である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　(2)帰納推理は、全称推理の欠陥を訂正する。帰納推理は、「すべての人間は死すべきものである」という全称推理の大前提を媒介によって導きだす。例えば、&lt;br /&gt;　「金、銀、銅、鉛等々は金属である、これらの物体は電導体である、ゆえにすべて金属は電導体である」。&lt;br /&gt;　帰納推理は全称推理とは逆に、個別の金属が電導体であることを媒介にして、すべての金属は電導体である、という普遍を導き出している。しかし、&lt;br /&gt;　この推論にも欠陥がある。個別の金属が電導体であることを経験的に知ることができても、すべての個を経験し尽くすことはできない。したがって、個別についての経験からすべてを推論するのは飛躍である。個別の並列は全体ではない。個別の無限の系列を尽くすことはできないからである。&lt;br /&gt;　こうしたことは、論理学においては、全体と部分の関係として規定される。金、銀、銅、鉛等々の系烈がどのようなものであるかは経験科学の課題である。&lt;br /&gt;　全称推理と帰納推理との関係の展開においては、普遍の規定の転化が起こる。金属が普遍で電導体であることが共通の属性である、という規定は経験的な意識による普遍の規定の出発点である。自然科学の発展によって、電導体であることが内的な普遍の規定になる。しかし、金属は電導体である、という規定も、伝導体は金属である、という規定も、つまり推論の形式一般が限界を持っている。普遍が運動しているにもかかわらず、普遍の運動を規定していないからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　(3)類推は、帰納推理の欠陥を訂正している。例えば、&lt;br /&gt;　「人々はこれまでにあらゆる遊星においてこうした運動法則を見出した。ゆえに新しく発見される遊星も、おそらく同じ法則にしたがって運動するであろう」&lt;br /&gt;　ヘーゲルはこの類推について、&lt;br /&gt;　「類推においては、一定の類に属する事物が一定の性質を持つということから、同じ類に属する他の事物もまた同じ性質を持つことが推理される。」とした上で、類推によって経験科学は重要な成果を達成した、と指摘し、さらに「類推は理性の本能であって、それは、経験的に見出される個々の規定が事物の内的な本性あるいは類にもとづいていることを予感させるものであり、さらにこの上に立脚しているのである。」と書いている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　帰納推理と類推は同じである。一定の類に属する事物が一定の性質を持つことにおいて、他の事物を同じ類として類推することは、普遍の認識過程である。一定の類に属する事物が一定の性質を持つことにおいて類であることが規定される。その類の限界は、一定の類に属する事物が、一定の性質を持たない事物に遭遇することによって規定される。そこに類の限界が現れ、新しい類の規定がはじまる。これが経験科学における普遍の規定の一般的な方法である。だから、「類推は理性の本質である」ということができる。類推は対象を普遍のもとに包摂することであり、普遍の規定だからである。&lt;br /&gt;　この場合、全称推理(演繹)と帰納推理の関係で見たように、演繹と帰納は相互に移行する。類推においても同様で、経験的な個別によって普遍を類推すると同時に、普遍によって個別の規定を類推している。一般に対象の規定とは対象の普遍の規定であるから、個と普遍の一致である。だから、演繹と帰納の同時的進行、あるいは演繹と帰納の一致が対象の規定であり、普遍性の規定である。&lt;br /&gt;　このような普遍性の規定は経験科学の普遍性の形成過程である。論理学はこの過程とは逆の過程をたどる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルは推理の種類を認識の発展形式として捉えている。この場合発展の規定は形式的規定になり、個と普遍の関係の展開として規定することはできない。そのために、&lt;br /&gt;　「地球は天体であって生物が住んでいる、月も天体である、ゆえに月にもまた生物が住んでいるであろう。」という類推や、&lt;br /&gt;　「カイウスという人間は学者である、ティトゥスもまた人間である、ゆえにかれもまた学者であろう」という類推を拙劣な類推の実例としている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　拙劣な類推、というのは稚拙な批判である。&lt;br /&gt;　地球は天体である、という場合の天体は地球と月その他の普遍である。天体という普遍のもとで地球に生物が住む現象が起きているのなら、月も天体という同じ普遍のもとで生物が住む現象が起きているであろう、と類推することができる。このような類推によって認識は発展する。&lt;br /&gt;　自然科学の発展によって、月には生物が住んでいないことが明かになると、生物との関係では天体という普遍の上にさらに普遍が必要になる。天体に生命が存在すると類推される限りにおいては、天体は生命にとっての普遍である。天体以外にも生命が存在することが明かになれば天体は生物が住むための普遍ではなくなる。生命が天体にのみ存在するなら天体は生命にとっての第一の普遍である。しかし、天体である月に生命が存在しないのであれば、生命にとっては地球と月の普遍である天体の内部におけるより限定された、つまり具体的な普遍が必要である。その普遍は、天体という普遍の内部で、地球と月の違いによって類推されて規定することができる。この類推は新しい天体の観察によってより具体的に規定される。&lt;br /&gt;　生物は天体に存在する。生物が存在するためには天体であることの他に多くの条件＝普遍が必要である。どのような条件が必要であるかは、天体という普遍のもとで天体と天体を比較をすることで明かになる。生物が存在するためにどのような条件が必要であるか、つまり生命の具体的な普遍はまだ明かになっていない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　「カイウスという人間は学者である、ティトゥスもまた人間である、ゆえにかれもまた学者であろう」という類推は、すべての人間が学者ではないことが経験的に明かだから拙劣である。「地球は天体であって生物が住んでいる、月も天体である、ゆえに月にもまた生物が住んでいるであろう」という類推は、すべての天体に生物が存在するのではないことが明かになることで拙劣になる。&lt;br /&gt;　類推が拙劣になるのは、より具体的な普遍が規定されて、その具体的普遍によってこの類推が超えられ、否定されたことを意味している。天体という普遍が生物の存在にとっての直接的な普遍ではないことが分かるまではこの類推は拙劣ではない。&lt;br /&gt;　地球と月が天体であること、と生物を結びつける普遍がどのような系統をなしているかはまだ分からない。人間でなければ学者にはなれない。人間であることは学者であることの普遍である。しかし、抽象的な普遍であって具体的な普遍ではない。人間という普遍と学者という普遍の間にはさまざまの普遍が入り込む。この規定が普遍の具体化である。また、この普遍を規定し固定するのが悟性の役割である。だから、このような普遍は悟性的普遍である。&lt;br /&gt;　論理学は、類推において規定されている普遍を運動体として規定する。だから、推理は認識の運動である。論理的な運動ではない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-1723404063620306448?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/1723404063620306448/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=1723404063620306448' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1723404063620306448'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1723404063620306448'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/02/blog-post.html' title='第三部 概念論 第一九〇節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-4638739019796910215</id><published>2011-01-30T22:11:00.001+09:00</published><updated>2011-01-30T22:12:36.014+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一八七、八、九節</title><content type='html'>　一八七節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.・・アリストテレスがこうした諸形態やその他精神および自然の数かぎりない諸形態を記述し、その特性をさぐりかつ明示したのは確かである。しかしかれはそのメタフュシカの諸概念においても、自然および精神の諸概念においても、悟性的推理の形式を基本においたり基準にしたりしようとはおよそしていないのであって、むしろわれわれは、もしアリストテレスの用いた諸概念のただ一つでも悟性の法則に従わされていたら、それは作られえなかったか、あるいはそのままの姿を保つことができなかったであろう、と言うことができる。アリストテレスは、かれ特有の仕方で、多くの記述的なものおよび悟性的なものを与えてはいるが、しかし支配的なものは常に思弁的概念であって、かれがはじめてあんなに明確な表現を与えた悟性的推理は、思弁的領域には用いていないのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、悟性推理の形式は、経験的な意識を認識論的に普遍化して纏めたものである。悟性とは普遍を固定して規定することである。アリストテレスは悟性推理の形式を精神の諸形態として記述している。しかし、ヘーゲルが指摘している通り、「メタフュシカの諸概念においても、自然および精神の諸概念において」も、つまり諸概念の記述においては、悟性的推理の形式にしたがって記述しているのではない。アリストテレスはメタフュシカや自然学では論理的に、ヘーゲル的に言えば思弁的に記述している。&lt;br /&gt;　ただ、アリストテレスは、経験的な意識を認識論として纏めることと、メタフュシカや自然学で展開している諸概念との関係を理解しているわけではなく記述しているわけではない。経験的に両方を別のものとして並列的に研究している。形式論理学は論理学ではなく認識論である。論理学を認識論と同一視するようになるのは、ヘーゲルも含めた後の哲学史の間違いである。この間違いの後にようやく認識論と論理学が明確に分離される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.補遺　推理の三つの格の客観的な意味は、あらゆる理性的なものが三重の推理として示されるということ、すなわち、その各項はいずれも端項の位置を占めるとともに、また媒介する中間項の位置をも占めるということである。例えば、哲学の三部門をなす論理的理念、自然、および精神がそうである。最初は自然が中間項、連結する項であって、直接的な総体性としての自然が、論理的理念および精神という二つの端項へ展開する。精神は、自然に媒介されているかぎりにおいてのみ、精神であるからである。しかし第二には、われわれが個的なもの、活動的なものとして知っている精神が中間項となり、自然と論理的理念とは端項となる。自然のうちに論理的理念を認識し、かくして自然をその本質にまで高めるのは、精神であるからである。同じく第三には、論理的理念そのものが中間項である。理念は精神および自然の絶対的な実体であり、普遍的なもの、すべてを貫いているものだからである。これが絶対的な三段論法の諸項である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、すべてのものは三重に区別され、それぞれが同一物のモメントとなっている。これがヘーゲルの体系の基本構造である。すべてのものとは概念であり、概念＝論理は三つの項に分離され、その上でそれらがモメントとして概念に統一される。世界のすべては、概念と現実存在と主観的概念＝自我の三者に分離され、それらが概念の運動として統一されている、というのがヘーゲルの体系である。ヘーゲルはこの体系において、主観と客観、個と普遍の一致を実現できると考えている。それは次のような三項関係になっている。&lt;br /&gt;　1、純粋概念＝論理が現実存在＝自然を生み出し、この現実存在＝自然を媒介にして、さらに主観的概念＝自我を生み出す。&lt;br /&gt;　2、主観的概念＝自我が、現実存在＝自然を媒介にして、その背後にある純粋概念＝論理を認識する。&lt;br /&gt;　3、現実存在＝自然と、その対立項である主観的概念＝自我の普遍＝実体が純粋概念＝論理であり、この実体が両者を結びつけている。&lt;br /&gt;　世界の全体を論理と自然と自我という三項に分離することによって、ヘーゲル弁証法はすべてを一元化した。実際には弁証法的な論理はこうした三項分離を基本構造にすることはできない。弁証法的な論理の基本構造は、二項の対立であって、有と無の対立が基本構造である。&lt;br /&gt;　しかし、ヘーゲルの壮大な体系は、主観と客観、個と普遍の同一を新しい相関において規定するための体系として画期的な意義がある。近代哲学の基本課題は、主観と客観の一致、個と普遍の一致である。ヘーゲルは、客観が主観に反映するという唯物論の考え方を超えて、主観も客観も運動するものであり、しかも相互に移行するという意味での同一性を規定するためにこの体系を造り出した。また、この問題と関連して、個が客観的存在であり普遍が主観に属するという観念論の限界を超えるために、個と普遍の関係をも相互の移行を真理として規定し、主観と客観の一致と個と普遍の一致を一元的な規定するためのこの体系を作り上げた。ヘーゲルの体系はこの目的を実現するものではなかったが、この体系の中で初めてカテゴリーに流動性を与え、カテゴリーを統一する試みがなされた。この意味で、ヘーゲルの体系が弁証法的論理学の前提であり基礎である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　一八八節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　補遺　ここに考察した量的推理は、誰も知っているように、数学においては公理としてあらわれており、人々は普通それについて、その他の公理についてと同じく、その内容は証明できないものであるが、しかし直接に明白であるから証明を必要としないものである、と言っている。しかし数学の公理というものは、その実、論理学上の命題にほかならず、そして論理学上の命題とは、特定の思想を命題の形で言いあらわしたものであるから、このかぎりにおいて、それは自己を規定する普遍的な思惟から導き出すことのできるものであり、これがまさにその証明なのである。数学において公理として掲げられている量的推理も同じことであって、それは質的推理あるいは直接的推理の最初の結果にすぎない。--量的推理はその上全く没形式の推理である。なぜなら、ここでは諸項の概念によって規定された区別が揚棄されているからである。どの命題を前提としたらいいかは、ここでは全く外部の事情によるのであるから、人々はこの推理を適用する場合、すでにほかのところで確証されていることを前提するのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、量的推理は無意味である。&lt;br /&gt;　数学の公理は論理学上の命題ではない。数学は経験科学であり、論理学は一般的な運動の科学である。論理学上の命題は特定の思想を命題の形で言いあらわしたものではない。経験科学のすべてと論理学をまず基本的に区別しなければならない。その上で、個別的に論理学と数学あるいは何らかの経験科学との関係を論じることができる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　一八九節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これまでのまとめと移行のこじつけである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-4638739019796910215?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/4638739019796910215/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=4638739019796910215' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/4638739019796910215'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/4638739019796910215'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/01/blog-post_30.html' title='第三部 概念論 第一八七、八、九節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-4389214581539388022</id><published>2011-01-27T22:52:00.001+09:00</published><updated>2011-01-27T22:54:23.688+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一八三、四、五、六節</title><content type='html'>　一八三節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.最初の推理は、前節に述べたように、定有の推理あるいは質的推理である。(1)　その第一格は個--特--普である。すなわち個としての主語が一つの質を通じて或る普遍的な規定性と連結されているのである。&lt;br /&gt;　　ここでは主語(小概念)が個という以外になお諸規定を持ち、またもう一つの端項(結論の述語、大概念)も、単に普遍であるという以外になお規定されているということは考察の外におかれ、両者が推理を形成する諸形式だけが問題となるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、定有の推理は、個と普遍の媒介となる特殊が定有＝質＝現実存在である場合である。特殊である定有は無数の属性を持っている。その属性の一つが媒介となって、個が属性の普遍と連結されるのが定有の推理である。この場合、主語の個の内的な規定も述語の内的規定も考慮されず、個と普遍は特殊によって形式的に連結されている。連結関係は偶然的で主観的である。&lt;br /&gt;　例えば「このばらは赤い」、「赤は色である」、「ゆえにこのばらは色を持つものである」、となる。この場合「このバラ」は無媒介に突然取り出され、その上で個別であるバラの一つの特性が「赤」として取り出され、この特性を媒介として、このバラは色という普遍を持つ、として普遍と連結される。この関係では、個と普遍の一致は規定されていない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　このような推理は偶然的な連結であるから意味を持たない。しかし、だからといって推理を否定することはできない。推理そのものは日常の意識の中に生きている。人間の認識は一般に推理であると言ってもよい。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.補遺　・・例えば、或る人が冬の朝目をさまして、車が街路の上をきしる音を聞き、それによって夜の間に厚い氷が張ったのだろうと考えるとすれば、かれは推理という操作を行ったのである。そしてこうした操作は、われわれが毎日種々様々の条件の下に繰返しているものである。したがってわれわれが思惟する人間として毎日行っているこうした行為を明白に意識するということは、少くとも、われわれが消化や同化や呼吸などの有機的生命の諸機能についてのみならず、われわれを囲んでいる自然の諸現象や諸形態について知識をうることにくらべて、その興味において劣るとは思われない。もっとも、消化したり呼吸したりするのに、前もって解剖学や生理学を研究している必要がないと同じく、正しい推理をするのにあらかじめ論理学を研究している必要がないのはもちろんである。--推理の諸形式およびいわゆる格をはじめて主観的な意味において考察し記述したのは、アリストテレスである。しかもかれは、根本的な点では何も附加するものがないほど正確にそれをなしとげている。この業績はアリストテレスに大きな名誉をもたらすものではあるが、しかし同時にわれわれが忘れてならないことは、かれがその本来の哲学的研究に用いているものは、けっして悟性推理の諸形式でなく、一般に有限な思惟の諸形ではないということである(一八九節の註釈を見よ)。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、凍てついた冬の朝、という普遍的な事実のもとで、常に様々の決まった現象が起こる。車が街路の上をきしる音をたてる現象はその一つである。この一つの現象から、凍てついた朝という普遍的な事実を推測し、その普遍的な事実から、厚い氷が張ったという別の現象を推理できる。こうした推理は、寒い朝という普遍的な事実とその事実に伴う無数の現象を連結している。&lt;br /&gt;　すべての個別現象を知覚的、感覚的に確認してそれを認識する必要はない。温度が低い時には、さまざまの共通の現象が起きることが経験的に知られている。その経験から、温度が低いことが普遍的な意味を持つ事実であることを理解して、その普遍のもとで起きる様々の現象を普遍との関連において理解していれば、個別現象と普遍的現象との関係を経験的に推理できる。こうした個別と普遍の関係の認識を蓄積していくことが人間の認識の発展である。個別と普遍の関係を理解していれば、さまざまの事実の一つ一つを感覚的に確認する労苦を免れることができる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　この実例には個別と普遍の関係が含まれている。論理学を学習していなくても、個と普遍の関係を含んだ経験的な推理をすることはできる。論理学は、こうした経験的な意識が発展していく過程で、その意識の成果であるもっとも一般的で抽象的な普遍を取り出して、それを独自の運動法則として規定する。個と普遍の関係が高度に複雑になると、経験的に蓄積されていく普遍的な意識だけでは、個と普遍の関係を理解することができなくなる。その場合、経験的な意識にとっても論理学が必要になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　アリストテレスは形式論理学について独自に研究している。しかし、アリストテレスはこの方式にしたがって論理を展開していることはない。ヘーゲルのこの指摘は正しいが、ヘーゲルの論理学は認識論でもあるので、その立場からは「分析論前書」と「形而上学」の関係を規定することはできない。&lt;br /&gt;　アリストテレスの「分析論前書」、一般に判断論や推理論は、認識論の一般化であり形式的規定である。認識論の一般化は経験的な学問である。認識論における普遍の定式化は、普遍の論理的規定のための素材の蓄積である。ヘーゲルはアリストテレスから遥かに高度になった普遍の規定を判断と推理の形式に取り込んでいる。しかし、それは認識論としての高度化である。判断論と推理論が認識論としてどれほど高度に発展して論理学にはならない。論理学は認識論ではなく客観的な運動法則の規定である。個別と普遍の一致を規定するのではなく、もっとも抽象的な普遍自体の運動を規定する学問である。&lt;br /&gt;　だから、論理学を研究するためには、アリストテレスが論理を展開している著書に学ぶべきである。ヘーゲルもアリストテレスの論理を研究した上で、その成果を判断論と推理論に投入している。こうした展開の意味を正確に理解するためには、認識論と論理学を分離することが必要である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一八四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ここは前節と同じである。普遍と特殊と個が偶然的で主観的な関係にある。ヘーゲルの言う根拠付けである。こうしたことがおこるのは、推理論が認識論だからである。論理学ではこうした主観的な認識形式を規定する必要はない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　一八五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これも一八三、四節と同じである。個と特殊と普遍が任意に関係づけられているから、関係は無限進行になる。これは現象間の関係の特徴である。論理はこの無限進行を本質の領域の一つの運動形式として規定する。推理という経験的な意識の弱点を批判的に扱うことは論理学の課題ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一八六節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これは移行のためのこじつけである。論理としてこんな進行があるわけではない。経験的な認識方法を並列しているだけである。この並列を論理化することはできないし必要もない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-4389214581539388022?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/4389214581539388022/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=4389214581539388022' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/4389214581539388022'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/4389214581539388022'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/01/blog-post_27.html' title='第三部 概念論 第一八三、四、五、六節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-116941502710916193</id><published>2011-01-23T22:00:00.001+09:00</published><updated>2011-01-23T22:01:44.763+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一八一、一八二節</title><content type='html'>　一八一節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.推理は概念と判断との統一である。それは、さまざまの判断形式が単純な同一性へ復帰したものとしては概念であり、概念が同時に実在性のうちへ、すなわち概念のさまざまな規定のうちへ定立されているかぎりでは判断である。理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である。&lt;br /&gt;　・・・・&lt;br /&gt;　　--しかし推理は、本節に示されたように、定立された(まず形式的に)、実在的な概念にほかならないから、推理はあらゆる真実なものの本質的な根拠である。そこで今や絶対者の定義は、それが推理であるということ、命題として言いあらわせば、「すべてのものは推理である」ということである。すべてのものは概念であり、概念の定有は概念の諸モメントの区別である。すなわち、概念の普遍性は特殊性を通じて自己に外的実在を与え、これによって、また否定的な自己内反省として、自己を個とするのである。これを逆に言えば、現実的なものは特殊を通じて自己を普遍へ高め、そして自己を自己と同一とするところの個である。--現実的なものは一つのものであるが、しかし概念の諸モメントはまた分離してもいる。推理はその諸モメントを媒介する円運動であり、これによって現実的なものは一つのものとして定立される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、推理の説明にも論理学としての積極的な意義はない。ヘーゲルに特有の体系を理解する側面から簡単に説明しておけば十分だろう。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの体系は概念が外化して現実存在と自我を作り出す。判断とは抽象的な概念と現実存在へと外化した概念の同一性の規定である。つまり、判断は現実存在である主語と抽象的な普遍である述語の直接的な同一性である。推理は、この両者の間に特殊が媒介として入る。普遍と特殊と個別の三つの要素が同一性として定立されている。抽象的概念が外化して規定を獲得して再び全体を統一するとそれが具体的な定立された概念である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルにとって理性とは普遍と特殊と個の統一である。これは主観と客観の統一をも意味している。ヘーゲルは、主観と客観の一致、個と普遍の一致というこの近代哲学の基本課題を解決するために、概念の客観的な展開と主観の認識過程を同一の過程として展開している。主観的概念は、客観性概念の運動の内部にあり、同じ運動をしているから、理性は現実的であり理性は概念の現実的な定立である。そして、推理は普遍と特殊と個別の統一であるから、理性的なものは推理である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　概念は自己を分化して自己に外在的実在を与え、さらに外在的実在は反省する自我としての個に到達する。これが概念の客観的展開である。そして、この形成された主観的概念＝自我が客観的概念と一致する過程が認識の過程である。自我＝主観的概念は現実的実在を媒介にしてその背後の普遍を認識して自己を普遍に高めることによって、主観的概念を客観的概念は一致する。こうして客観的な概念は自己を外化して主観的概念に高めることで自己と一致する円運動を描く。この構造においてヘーゲルの体系は、概念の客観的運動と主観的概念の運動が一つの運動になっている。&lt;br /&gt;　客観的な概念の運動と認識の運動の同一化をヘーゲルの弱点とする批判があるが、ヘーゲルの論理構造はすっきりしており、混乱というほどのものではない。ただし、客観的運動の過程を逆にたどる認識の過程は論理の展開としては不必要である。また、客観的な運動を、概念が普遍と特殊と個に分離してそれを再び同一化する過程だとするのはあまりにも単純で論理の過程を構成しない。個と普遍の同一性、主観と客観の同一性を規定するには、ヘーゲルが客観的概念の過程としている純粋有から出発する論理学の全体が必要である。だから、普遍と特殊と個の同一性を抽象的に規定することには論理的な意味はない。普遍と特殊と個の同一性の主張は、普遍の運動の規定ではないからである。全体を一体とする、というのは運動の規定ではない。全体の同一性は運動の展開によってのみ規定できる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一八二節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.直接的推理は、概念の諸規定が抽象的なものとして相互に単なる外的関係のうちに立っている推理であり、したがって二つの端項は個と普遍とであるが、両者を結合する中間項としての概念も同じく抽象的な特殊にすぎない。そのために二つの端項は相互的にも、またその中間項にたいしても無関係的にそれだけで存立しているものとして定立されている。この推理はしたがって、概念を欠いたものとしての理性的なもの、すなわち形式的な悟性推理である。&lt;br /&gt;　この推理においては、主語は自分とは別な一つの規定性と結合される。あるいは逆に言えば、普遍はこの媒介を通じて自己に外的な主語を包摂する。これに反して理性的な推理は、主語が媒介を通じて自己を自分自身と結合するということである。かくしてはじめてそれは主語となるのであり、あるいは、かくしてはじめて主語はそれ自身に即して理性推理となるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは常に抽象的＝直接的関係から、具体的＝媒介的関係へと進む。推理は普遍と特殊と個の関係を規定している。直接的推理は、普遍と特殊と個のそれぞれが抽象的で、相互に外的に関係している。普遍と特殊と個が抽象的で直接的な関係にある場合、悟性推理である。普遍と特殊と個が内的関係にある場合理性推理である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルは、普遍と特殊と個の関係が抽象的関係から具体的な規定的な関係へと進展する、としているだけである。こうした進展では論理的な関係は現れない。&lt;br /&gt;　補遺の終わりに、&lt;br /&gt;　「例えば、自由を必然の抽象的な対立とみるのは、自由の単なる悟性概念であるが、これに反して自由の真実な理性的な概念は、必然を揚棄されたものとして内に含んでいる。」と書いている。&lt;br /&gt;　自由を必然性の抽象的な対立と見るのは間違いであるが、自由は必然性と対立していることにおいて自由であり、対立が大きいほど自由も大きい。だから、まず自由は必然性との対立において規定される。しかし、ある必然性が自由と規定される限りは、対立する必然性との関係に入り込んだ独自の必然性を意味しているから、必然性と対立する自由は必然性内部の必然性である。この両者の関係を規定することが自由と必然性のそれぞれのカテゴリーの規定である。だから、自由と必然性を抽象的な対立と見るべきではなく、「自由の概念は必然性を揚棄したものとして内に含んでいる」としたところで自由と必然の関係の運動を規定できているわけではない。このような抽象的な規定は、ヘーゲルがまだ自由と必然性の関係を規定できていないことを示している。ヘーゲルは、外的な抽象的な関係を批判して、内的な関係を対置している。ヘーゲルがこうした形式的な批判をするのは、内的な関係を具体的に規定できない場合である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-116941502710916193?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/116941502710916193/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=116941502710916193' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/116941502710916193'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/116941502710916193'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/01/blog-post_23.html' title='第三部 概念論 第一八一、一八二節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-7540990769763746788</id><published>2011-01-20T22:01:00.002+09:00</published><updated>2011-01-20T22:04:04.803+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一七七～一八〇節</title><content type='html'>　一七七節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの説明は複雑であるが、その複雑な説明に論理は含まれていないので、全体を批判的に単純に要約しておく。&lt;br /&gt;　必然性の判断は定言判断と仮言判断と選言判断の三種類である。&lt;br /&gt;　定言判断は、「金は金属である」、「ばらは植物である」といった判断である。これは、述語が主語の実体あるいは普遍であり、実体性の相関である。本質の領域で言えば、現象は本質である、という関係である。&lt;br /&gt;　しかし、金と金属、バラと植物は、抽象的に直接的に関係している。両者は媒介的な一致ではなく、したがって具体的な普遍ではない。&lt;br /&gt;　こうした展開はすべてヘーゲルの図式による形式的な論理の進行である。論理はこのように進行するわけではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.しかし定言判断もなお不十分なところを持っている。というのは、それは特殊性のモメントに正当な地位を与えていないからである。例えば、金は金属であるにはちがいないが、しかし銀や銅や鉄なども同じく金属である。そして金属性そのものは、特殊なものである種に無関係に振舞っている。ここに定言判断が仮言判断へ進んでゆかなければならない理由がある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、金とその実体＝普遍である金属の一致の判断は抽象的である。金と金属の間に特殊としての普遍が媒介項として入ることによって具体的になる。&lt;br /&gt;　このような展開を見ると、ヘーゲルの個と普遍の一致、つまり具体的普遍がいかに抽象的で単純であるかがわかる。ヘーゲルの図式における個と普遍の統一は形式論理学と対立するものではなく、形式論理学にそのまま運動を持ち込んだものである。しかし、この方法では運動は生まれない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.仮言判断は、「もしAが存在すれば、Bが存在する」という定式で言いあらわすことができる。ここには実体性の関係から因果関係への進展と同じ進展が見出される。仮言判断においては、内容の規定性が媒介されたもの、他のものに依存するものとしてあらわれるが、これはまさに原因と結果との関係にほかならない。仮言判断の意義は、普遍をその特殊化において定立することにあるが、これによってわれわれは必然性の判断の第三の形式として選言判断をうる。AはBであるか、Cであるか、Dであるかである。詩は叙事詩であるか、劇詩であるかである。色は黄であるか、青であるか、赤であるか、等々である。選言判断の二つの項は同一であって、類はその種の全体であり、種の全体は類である。普遍と特殊とのこのような同一が概念であり、今や判断の内容をなしているものは概念である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの図式的体系は抽象的な実体＝概念が自己を外化して現実存在から自我に至る過程である。個と実体は抽象的な関係にある。実体は外化の過程において階層的に分化した後に個に到達する。普遍が分化して個に到達することはありえないが、ヘーゲルは個を出発点として普遍に到達する認識の過程を前提としているので普遍の分化が個に到達し、それによって個と普遍が一致すると考えている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルのカテゴリーでは、実体の階層的な分化における普遍の相互関係が因果関係である。だから、ヘーゲルにとっては、因果関係は本質と現象の関係の部分としての実体的相関である。&lt;br /&gt;　このようなヘーゲルの図式のもとでは、A という条件あるいは原因は、本質と現象の実体的相関の間に入り込んでくる特殊になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　本来の論理的関係においては、「もしAが存在すれば、Bが存在する」という相関は、実体的相関ではなく、本質の領域における現象と現象の相関である。ヘーゲルは、現象間の相関を規定する経験的な意識をそのまま実体的相関として採用し、実体的相関の発展の一モメントとして位置づけている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの規定と違って、本来は選言判断も実体的相関ではなく現象間の相関であり、量的で現象的で外的な規定である。詩は叙事詩であるか、劇詩であるかである。色は黄であるか、青であるか、赤であるか、等々である、というのは、ある普遍の規定に分類として包摂された個別を数え上げているにすぎない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　形式論理学もヘーゲルの体系も認識論の体系である。経験的な意識の認識の発展は個を出発点として普遍の層を形成する過程をたどる。判断の形式も推理の形式も、経験的な認識の発展形式である。&lt;br /&gt;　定言判断は、普遍と普遍の関係を抽象的で直接的な形式で規定している。石ころも金もリンゴも猿も物質である、と規定すると、石ころも金もリンゴも猿も同じ実体を持つことになる。実体が抽象的であると、石とリンゴと金と猿の区別ができない。物質という実体は具体的な普遍ではない。&lt;br /&gt;　だから、個と普遍の関係を、個の普遍と個の普遍の関係に分割して普遍を具体的に規定することになり、それによって実体＝普遍の多層的な分割がはじまる。この分割の条件が仮言判断の内容である。そして、選言判断は、この特殊の内部の個別を数え上げる。このような経験的な意識による普遍の分割によって普遍の階層的な体系が生まれる。これが分類である。&lt;br /&gt;　この方法は悟性的な普遍の規定であり、存在の普遍の固定化である。この過程は運動の規定ではなく、普遍の無限分割の過程である。この無限分割によって、個と普遍、現象と本質、類と種の一致に到達することはできない。近代の論理学の課題は、このように分割されて形成されてきた普遍と普遍の関係を規定すること、つまり普遍の運動を規定することである。普遍の運動の展開は、判断と推理に見られる認識の進行と逆の進行になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　一七八節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.概念の判断の内容をなしているものは概念、すなわち単純な形式における総体性、完全な規定性を具えた普遍者である。その主語は(1) まず、特殊な定有のその普遍者への反省を述語として持っている個である。すなわち、この述語は、特殊な定有と普遍者との一致あるいは不一致をあらわすものであって、善い、真実である、正しい、等々がそれである。これが実然的判断である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念の判断の内容が総体性、完全な規定性を具えた普遍者になるというのは、ヘーゲルの図式による特殊な理解である。判断の形式は定有の判断と同じであるが内容が違う。ヘーゲルの図式では、概念は外化して現実存在となり、さらに自我＝主観的概念となる。主観的概念の段階においては、個別と普遍の関係は同時に主観と客観の関係であり一致である。&lt;br /&gt;　概念の判断とは判断の内容が概念であること、つまり、主観的自我に到達した概念が、客観的概念と自己の一致を規定することを意味している。ヘーゲルの図式から離れて客観的に言えば、主語と述語の内容が社会的な精神を意味している、ということである。ヘーゲルは自然法則と社会法則を分離していないが、論理の展開の中にこの分離が反映している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの図式では本質の領域とは概念が外化して現実存在となった領域である。この領域は概念と現実存在が分離している領域であり、そのために現実存在は有限な存在である。概念が自然的現実存在の段階を超えて主観的概念を形成する段階では、概念と主観的自我が一致する。&lt;br /&gt;　このことから見ると、ヘーゲルの絶対的精神の図式は、現実存在における個と普遍、本質と現象の一致を規定することができないことによって生まれた形式であることがわかる。個と普遍、正しくは普遍と普遍の一致は、普遍の運動としてのみ規定できる。ヘーゲルは普遍の運動を規定しているのではなく、認識が生み出してきた普遍を並列して、それが内的な関係を持つと断言しているにすぎない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一七九節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.実然的判断は、その述語においては、特殊と普遍との関係を表現しているが、その主語は直接的であるから、主語においてはこの関係を含んでいない。この判断はしたがって主観的な特殊性であり、これには反対の断言が同等の権利をもって--あるいはむしろ不当をもって--対立している。したがってそれは(2)すぐに単なる蓋然的判断となる。しかし(3) 客観的な特殊性が主語に即して定立され、主語の特殊性が主語の定有の性状として定立されるにいたれば、主語は客観的な特殊性と主語の性状すなわち類との関係を表現し、したがって述語の内容をなしているものを表現する(前節)。この(直接的な個体性)家(類)は、かくかくの性状(特殊)を持っているから、よい、あるいは悪い。これが確然的判断である。すべての事物は、特殊な性状を持つ個別的な現実性のうちにある類(事物の使命および目的)である。そしてそれらの有限性は、それらの特殊性が普遍にしたがっていることもあれば、そうでないこともある、という点にある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、実然的判断では、主語と述語の形式的関係ではなくて、主観的概念と客観的概念との関係が判断の内容として問題になる。判断の形式ではなく、その判断が正しいかどうか、をヘーゲルは問題にしている。実然的判断は、主観的概念と客観的概念の一致を抽象的な判断として示している。実然的判断は両者の一致の根拠、あるいは原因を示していない。実然判断は特殊と普遍との具体的関係を示すものではないから主観的である。抽象的な対立的な断言が併存することになる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　したがって、実然判断は、すぐに単なる蓋然的判断となると、ヘーゲルは実然的判断と蓋然的判断を論理の発展であるかのように関連づけている。しかし、判断の種類は経験的な意識の認識論的な展開にすぎない。判断の種類を論理の展開として関連づけることはできない。ヘーゲルの図式的な論理の進行は無理なこじつけである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一八○節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.かくして主語および述語は、各々それ自身全き判断である。主語の直接的な性状はまず第一に、現実的なものの個別性と現実的なものの普遍性とを媒介する根拠、すなわち判断の根拠としてあらわれる。実際そこに定立されているものは、概念そのものとしての主語と述語との統一である。概念は「である」という空虚な繋辞の充実であり、概念の諸モメントは主語および述語として区別されながらも、概念は両者の統一、両者を媒介する関係として定立されている。これがすなわち推理である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは個別と普遍を特殊で媒介する。これは経験的な意識における分類の相関関係である。カントの物自体と現象の関係で言えば、物自体が自己展開して現象を生み出ことで物自体と現象が一致する、という図式である。この関係で両者が具体的に一致するには、主語と述語の関係の間に条件を媒介させることが必要になる。このような経験的で悟性的な普遍の規定は、対象の普遍性の無限分割、つまり物自体の無限分割になる。これがヘーゲルの言う悟性的認識である。この方法では個別と普遍は一致しない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-7540990769763746788?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/7540990769763746788/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=7540990769763746788' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/7540990769763746788'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/7540990769763746788'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/01/blog-post_20.html' title='第三部 概念論 第一七七～一八〇節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8590273268975187889</id><published>2011-01-16T19:07:00.002+09:00</published><updated>2011-01-16T19:07:54.247+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一七四、五、六節</title><content type='html'>　一七四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.個として(すなわち自己へ反省したものとして)判断のうちへ定立された個は、一つの述語を持っているが、自分自身へ関係するものとしての主語は、この述語にたいして、同時に他のものとしてとどまっている。--現存在においては、主語はもはや直接に質的ではなくて、他のものすなわち外界と関係し連関している。かくして普遍性は、このような相関性の意味を持つようになる(例えば、有用、危険。重力、酸。衝動、等々)。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念の外化というヘーゲルの図式において、まず質的判断は、概念から現存在が定立される関係を規定している。主語は現存在であり述語は概念である。現存在は概念が生み出した自己自身であるから、現存在と概念は直接的な自己関係である。&lt;br /&gt;　概念が現存在を生み出した後に、現存在と現存在の相互関係が生じる。現実存在の相互関係を規定しているのが反省の判断である。&lt;br /&gt;　主語と述語が或る現存在と他の現存在の関係を規定することにおいて、判断は個別存在を超えて他の個別存在との関係を包摂する。反省の判断が規定している或るものと他のものの関係は、或るものにとっての他のものの意義、あるいは他のものにとっての或るものの意義である。この有用性や危険性等々の関係を、もっとも抽象的に一般的な発展形式において規定すると、現存在と現存在の関係は量的な包摂関係の発展になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　現存在と現存在の関係は、論理的には本質の領域における現象と現象の関係である。この相互関係は差異、対立、因果関係等々として規定されている。或るものと他のものの外的関係というのは、本質を媒介しない現象間の直接的な関係という意味である。ヘーゲルは本質の領域で個を出発点としているから、現象と現象の関係を規定することができない。そのために、形式論理学における経験的で認識論的な規定に無批判的である。ヘーゲルは認識の発見形式を論理の発展形式として位置づけようとしている。これは論理ではないし、弁証法ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一七五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、反省の判断の三つの形式。&lt;br /&gt;　単称判断・・・この植物は薬になる。&lt;br /&gt;　特称判断・・・いくつかの植物は薬になる。&lt;br /&gt;　全称判断・・・すべての人間は死すべきものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　反省の判断は現存在の相互関係である。この相互関係を量的に拡大していくと、すべての現実存在を包摂する規定になる。その場合に判断は個別の現存在を超えて他の現存在に到達するだけでなく、すべての現存在についての普遍的な判断になる。経験的な意識の発展はこのように規定できる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　しかし、このような経験的な意識による量的拡大では現存在の普遍に到達することはできない。全称判断は、現存在についての量的な判断である。個別のこのもの、いくつかのもの、すべてのもの、と言った悪無限の量的拡大によっては、「すべて」に到達することはできないし、したがって普遍に到達することはできない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは反省の規定における普遍を批判して、補遺の最後に、「そしてこの普遍的なものは、単にその他の抽象的な質や単なる反省規定の外に、それらと並んで存在する或るものではなく、あらゆる特殊なものを貫き、それらを自己のうちに含むものである。」と真の普遍性を規定している。&lt;br /&gt;　あらゆる特殊なものを内的に貫く、といっても普遍性の規定にならない。ヘーゲルは経験的な意識による普遍性の規定を並列した上で、それは外的な関係であり、真の普遍は内的な関連である、と主張しているにすぎない。普遍性は個別存在を貫く内的なものとして規定できるものではない。&lt;br /&gt;　しかし、経験的な意識の発展、つまり認識論としては、この外的で量的な普遍から、全体についての内的な規定へと進展する。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一七六節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■.このように、主語も同じく普遍的なものとして規定されることによって、主語と述語との同一が定立され、同時にこのことによって判断規定そのものが無差別なものとして定立されている。内容が主語の否定的自己内反省と同一な普遍性であるという内容のこうした統一によって、判断の関係は必然的な関係となる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、全称判断における、すべての植物、すべての人間と言った主語は、外的で量的な普遍である。この外的で量的な普遍から、内的で質的な普遍の規定へと発展すると必然の判断になる。全称判断は外的で量的な判断であるから、無規定で無差別な判断である。この無差別な判断から内的な規定の判断に発展したものが必然の判断である。&lt;br /&gt;　植物全体から、植物そのものの内的規定への進展、量的な規定から質的規定への進展、は認識の発展過程である。この進展は論理の進展とは逆方向であるから現実存在と普遍の一致に到達することはできない。&lt;br /&gt;　量は質の内的運動である。だから、量の規定の進展によって質＝普遍性の規定を得ることはできない。量の規定から質の規定への進展、あるいは全体性の規定から質の規定へと移行することはできない。全称判断と必然的の認識には深淵が横たわっている。この深淵を超えることが哲学史の課題であった。ヘーゲルはすべての論理の段階、進展において、常にここに内的関連があり、その関連が概念であると主張しているにすぎない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8590273268975187889?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8590273268975187889/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8590273268975187889' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8590273268975187889'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8590273268975187889'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2011/01/blog-post.html' title='第三部 概念論 第一七四、五、六節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8799841964504493360</id><published>2010-12-24T00:34:00.001+09:00</published><updated>2010-12-24T00:35:18.456+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一七二節</title><content type='html'>　一七二節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．直接的判断は定有の判断である。ここでは主語は、その述語である一つの普遍性のうちに定立されているが、この述語は一つの直接的な(したがって感性的な)質である。定有の判断は(1)　個は一つの特殊なものである、という肯定判断である。しかし個は特殊なものではない。もっとはっきり言えば、そうした単一の質は主語の具体的な性質に適応しない。(2)　これが否定判断である。&lt;br /&gt;　　「ばらは赤い」とか、「ばらは赤くない」というような質的判断が真理を含みうると考えるのは、普通の論理学の最も根本的な偏見の一つである。こうした判断も正しくはありうる。言いかえれば、知覚、有限な表象および有限な思惟のかぎられた範囲内では、そうでありうる。そしてそれが正しいかどうかは、それ自身としては真理でない有限な内容に依存している。しかし真理は形式にのみ、すなわち、定立された概念とそれに対応する実在とにのみ依存している。しかしこうした真理は質的判断のうちには存在しない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの論理では定有は感性的な個別存在である。本来論理においては終点である個別存在がヘーゲルの論理においては出発点になっており、定有は論理の出発点としての主語である。定有のこの規定は経験的な意識における存在の規定である。存在の規定は運動の規定としての論理とは逆の関係の規定、つまり逆立ちになる。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理が意味する定有の判断では、個別存在を構成する無数の質＝普遍の一つを取り出して、個別と普遍の一致を規定していることになる。肯定判断は、個別存在が含んでいる無数の普遍の一つである属性を、個別存在との一致として規定している。&lt;br /&gt;　バラは赤い、という肯定判断は、バラという存在と赤という普遍の一致を規定している、とヘーゲルは考えている。しかし、バラは赤くないこともあり、赤以外の質＝普遍を含んでいるからバラと赤は一致していない。だから肯定判断を補足するために、このバラは赤ではない、という否定判断が生まれる。否定判断は、バラに含まれる無数の普遍＝質の中に赤という普遍が含まれていないとする、つまりバラと赤の不一致の規定である。バラは赤い、という規定と対立するこの規定も正しい規定ではなく、一面的あるいは部分的である。両方を合わせても正しい規定にならない。&lt;br /&gt;　この場合、このバラは赤い、と修正しても同じである。すべてのバラはこのバラであるから。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　正しさと真理は普通同じ意味にとられており、したがってある内容が正しいにすぎない場合に、それが真理であると言われることがよくある。正しさとは、一般にわれわれの表象とその内容との形式的な一致をさすにすぎず、その内容がどんなものであるかは問題でない。これに反して、真理〔真実態〕とは、対象の自分自身との、すなわちその概念との一致である。或る人が病気であるとか、或る人が盗みをした、というようなことは、正しいかもしれない。しかしこうした内容は真理ではない。なぜなら、病気にかかっている肉体は、肉体の概念に一致していないし、また盗みは人間の行為という概念に適応しない行為だからである。この例から、直接的な個物について一つの抽象的な質を言いあらわす直接的判断は、それがたとい正しくても、その主語と述語とが互に実在と概念との関係をなしていないのであるから、真理を含むことはできないことがわかる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これは全体としてヘーゲルを修正すべきである。&lt;br /&gt;　真理とは、表象あるいは思惟と対象の一致である。哲学的なつまり論理学的な真理とは、思惟と客観的運動法則一般との一致である。或る人が病気であるかどうかは、病理学にとっての真理である。それがどのような病気であるかの規定の具体化が真理の発展である。盗みをしたかどうか、それが盗みであるかどうかは、法律学的な真理として探求される課題である。&lt;br /&gt;　肉体が病気にかかるものであるならば、実際にそうであるが、病気にかかる肉体は肉体の概念に一致している。一定の社会的条件の限界においてであるが、人間は盗みをする。だから、その限界内の概念というものを想定するならば、人間の概念は盗みを含んでいると考えるべきである。&lt;br /&gt;　或る人が病気である、或る人が盗みをした、は哲学的な論理的な真理ではない。論理学の内容はカテゴリーの体系的展開である。病気や盗みといった個別現象は論理学の対象ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．--さらにまた直接的判断の真理ではない点は、その形式と内容とが適応しあっていないことにある。「このばらは赤くある」と言うとき、「ある」という繋辞は、主語と述語とが合致することを含んでいる。しかしばらは具体的なものであるから、単に赤くあるだけでなく、また香いや一定の形をも持ち、その他赤という述語のうちには含まれていない多くの規定を持っている。他方またこの述語は、抽象的な普遍として、単にこの主語にのみ属するものではなく、同じく赤くある他の多くの花や一般に他の多くの物が存在している。かくして直接的判断においては、主語と述語とは、言わば一点で触れあうにすぎず、互に合致はしない。概念の判断となるとちがう。「この行為は善い」と言えば、それは概念の判断であるが、こうした判断においてすぐに気のつくことは、ここでは主語と述語とのあいだに直接的判断におけるような、ゆるい、外面的な関係はないということである。直接的判断においては述語は一つの抽象的な質であって、それは主語に属することもあれば、また属さないこともありうるが、これに反して概念の判断においては、述語は言わば主語の魂であり、この魂の肉体である主語は魂によって全く規定されている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、「このバラは赤くある」という命題において、ヘーゲルはバラは個別で赤は普遍だと考えている。このような関係においては、個別と普遍は一致しない。バラは他の多くの普遍を持っているし、赤でないバラもある。このことをヘーゲルは、経験的に「一点で触れ合うに過ぎず、互いに合致はしない」としている。&lt;br /&gt;　そしてこの規定と対比して、ヘーゲルは「この行為は善い」という概念の判断は、肉体である主語が魂によって全く規定されている、としている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　「このバラは赤くある」と、「この行為は善い」という規定は論理的には同じである。バラにさまざまの色があるのと同様に、行為には善い行為もあり悪い行為もあり、無意味な行為もあり有意義な行為もある。「この行為は善い」という判断は「このバラは赤くある」という判断より、内容が複雑になっており、つまり普遍と普遍がいっそう多くのそして複雑な相関関係を形成している、という違いがある。特定の行為はバラよりも複雑な規定を持っており、この行為は善いとも規定できるし悪いとも規定できるし、客観的にもそうである。&lt;br /&gt;　ヘーゲルはバラと赤の関係、行為と善いの関係を規定することができない。そのために一致の形式を魂という言葉で表現している。魂は一致の規定ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　バラを主語としてその属性を述語とする関係では、バラと属性の一致を規定することはできない。論理的な規定ではなく、論理的な側面から言えば順番が逆である。本質の領域のカテゴリーでは、バラが同一性であり、その属性は現象である。この関係によってのみバラとバラの属性＝赤の関係を規定することができる。本質と現象、つまりバラと赤が同一性の関係にあるのではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　バラと赤の一致は、バラという同一性においてバラの現象つまり色＝赤が運動する、という論理形式でのみ規定することができる。赤いバラ、白いバラ、大きいバラ、小さいバラ等々の多様なバラがバラという同一性において形成される。バラの無数の属性は、バラの同一性における運動としてのみ、すべての属性の相互関係において規定される。バラとその属性の一致とは、一般的に言えば、バラの運動形式である。バラという個別性となんらかの普遍性の一致はありえない。&lt;br /&gt;　「バラは赤い」と、「バラは赤くない」という命題は運動の規定ではなく存在の規定である。このような規定においてはバラの運動の全体を規定することができない。バラは赤い、という規定を、バラは赤くない、という規定で補足してもバラの全体の規定にならない。ヘーゲルはそのことを指摘しているが、バラの全体をどのように規定するか、つまり、バラという存在を運動としてどのように規定するかを明かにしているわけではない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8799841964504493360?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8799841964504493360/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8799841964504493360' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8799841964504493360'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8799841964504493360'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/12/blog-post_24.html' title='第三部 概念論 第一七二節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-1704374827527652978</id><published>2010-12-19T20:59:00.001+09:00</published><updated>2010-12-19T21:00:09.821+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一七一節</title><content type='html'>　一七一節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．主語、述語、および特定の内容あるいは同一性はまず、関係のうちにありながらも、異ったもの、分離するものとして判断のうちに定立されている。しかしそれらは本来すなわち概念上同一なものである。というのは、主語の具体的な総体性は、けっして無規定の多様性を意味せず、それは個すなわち特殊と普遍とが同一になったものであり、そして述語はまさにこうした統一にほかならないからである(一七〇節)。繋辞において主語と述語との同一が定立されてはいるが、しかしそれはさしあたり抽象的な「である」として定立されているにすぎない。しかしこの同一性にしたがえば、主語はまた述語の規定のうちにも定立されなければならないから、これによって述語もまた主語の規定を持つようになり、かくして繋辞は充実される。これが内容豊かな繋辞を通じての判断の推理への進展である。まず判断に即して行われる進展は、最初抽象的な、感覚的な普遍性が、すべてに属するものになり、次に類および種へ進み、最後に発展した概念的普遍性になることである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ここにはヘーゲルの同一性の意味がよく出ている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理構造では、主語は個別存在である。個別存在には無限の普遍が含まれている。これが主語の具体的な総体性である。この総体性は無規定の多様性ではなく、個と普遍が同一になったものであり、述語がこの多様性を統一している。ただし、判断の段階では、どのように統一されているかが規定されておらず、抽象的にただ、同一である、と断定されているだけである。この主語の具体的内容が述語のうちにも定立されなければならず、述語が主語の規定を持つようになると、それが判断から推理への進展である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　こうしてヘーゲルの論理構造は、個別の背後の普遍から、その間の普遍へ、さらにその間の普遍へ、と普遍を重ねて、あるいは普遍を分割することで個と普遍が統一されることになる。これがヘーゲルの概念の無限分割である。この方法では個と普遍の同一を規定することはできない。無限分割は同一の当為にすぎない。このようになるのはヘーゲルが存在の規定だけを問題にしているからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　個別存在は論理的に言えば、換言すれば一般的運動として規定すれば、純粋有から展開される運動の到達点であり、無数の普遍の相互関係によって構成されている。この普遍が作り出す構造を運動として規定するのが本来の論理学である。ところが、ヘーゲルは個別存在を前提としてこれを出発点としている。そうすると、個別存在の普遍は個別存在の背後にある普遍ということになり、個別存在と普遍は分離され、その同一性とは両者の関係としての中間となる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲル的な概念の無限分割において、同一性が内容とされる場合は、主語は述語の規定のうちに定立され、述語は主語のうちに定立される、という折衷的な関係になる。個と普遍のこの意味での同一性が概念の具体的な内容となる。ヘーゲルの論理では、個と普遍の同一性として内容が特殊である。これでは概念が分割されて同一性が主張されるだけで、同一性を具体的に規定することはできない。特殊という規定を作り出すだけである。こうした規定の進展においては、個と普遍の間の同一性が特殊になり、個と特殊の間が分割されると個と特殊の同一性がうまれる。こうして概念が無限に分割されることによって現実存在とその規定を作り出す構造になっている。したがって、概念とその外化である現実存在は直接的に一致しており、具体的存在の分類的な体系を概念の体系として実証的に追認しているにすぎない。個と普遍の論理的な関係は規定されていない。&lt;br /&gt;　このような論理構造を前提として、判断の諸種類を必然的な体系的関連として規定しても論理の進展にはならない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺・・これに従うと、われわれはまず、有、本質、および概念という三つの段階に対応する判断の三つの主要な種類をうる。そしてこの三つのうちの第二の種類は、差別の段階である本質の性格に対応して、再び自己のうちで二重化している。判断がこのような体系をなしていることの内的根拠がどこにあるかと言えば、それは、概念は有と本質との観念的統一であるから、判断において行われる概念の展開は、まずこれら二つの段階を概念にふさわしく変形しながら再生産しなければならないということ、そして次に概念そのものもまた真の判断として自己を規定しなければならないということに求められなければならない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの図式では、本質の領域は概念と現実存在との対立の領域になる。主観的概念の領域で両者は統一される。だから、主観的概念は有と本質の観念的統一となる。これはヘーゲルの観念論的な図式であるから、この図式に基づいた論理は論理ではない。本質の領域は、差別の段階だとか区別の段階というものではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　本質の領域におけるカテゴリーの展開は、質の他の質への転化と、それによる質の重層的構造の領域である。概念の領域は、本質と現象の基本的対立の展開のうちに、現象形態の一つとして主観が登場することでこの構造がさらに高度に複雑になる領域である。ヘーゲルの単純な論理構造は経験的な意識を無批判に反映している。こうした経験的な意識による論理構造によっては、経験的な意識における判断の意義を論理にまで深めて規定することはできない。&lt;br /&gt;　論理学は、質の判断、量の判断、関係の判断、様態の判断に分離してその関係を規定するのではなくて、質の形成、質の量的運動、質の質への転化を一般的な運動として規定する学問である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．・・判断の諸種類は、同じ価値を持つものとして並列さるべきものではなく、段階をなすものと考えられなければならない。そしてその区別は述語の論理的意味によるのである。このことはすでに普通の意識にも見出される。例えば人々は、常に「この壁は緑である」とか、「このかまどは熱い」というような判断しかくださない者には、非常に貧弱な判断力しか認めないであろう。そして、或る芸術作品が美しいかどうか、或る行為が善いかどうか、等々というような判断をくだす人をはじめて本当に判断のできる人と呼ぶであろう。前者のような判断においては、その内容は抽象的な質にすぎず、その存在を決定するには、直接的な知覚で十分であるが、これに反して、或る芸術作品を美しいと言い、あるいは或る行為を善いと言う場合には、対象がそのあるべきもの、すなわちその概念と比較されるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、「この壁は緑である」、「このかまどは熱い」、「この作品は美しい」、「この行為は善い」というのは、認識の形式は同じである。本質の領域においては、現象と現象の相関としてのカテゴリーとして規定される。ヘーゲルは本質の領域を、本質と現象の対立における運動として規定するカテゴリーを持たないから、こうした判断の特徴を論理的に規定することができない。だから、判断が概念的であるかどうかは判断の内容によって規定することになる。客観的概念など存在しないから、「対象がそのあるべきもの、すなわちその概念と比較される」判断など存在しない。&lt;br /&gt;　ある芸術作品を美しいということ、ある行為を善いという場合は判断で、下らない芸術作品を美しいといい、下らない行為を善い行為だと言う場合は判断ではない、というのは判断の形式とは別の問題である。つまり、論理の問題ではない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-1704374827527652978?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/1704374827527652978/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=1704374827527652978' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1704374827527652978'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1704374827527652978'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/12/blog-post_19.html' title='第三部 概念論 第一七一節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-3151017996780330105</id><published>2010-12-16T20:16:00.001+09:00</published><updated>2010-12-16T20:17:25.538+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一六八～一七〇節</title><content type='html'>　一六八節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．判断の立場は有限の立場である。この立場における事物の有限性は、事物が判断であること、すなわちその定有とその普遍的本性(その肉体と精神)が合一されてはいるが--でなかったら事物は無であろうから--これらのモメントはすでに異っており、また一般に分離しうる、ということにある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの論理は概念とその外化で構成されている。概念が外化して現実存在となると、現実存在＝定有と概念＝普遍性が分離している。両者の分離が有限で一致が無限である。有限の領域とは自然的存在の領域のことである。現実存在が自我にまで到達すると、自我自身が概念となる。自然的存在においては、概念は即自体として内在しているだけである。だから、自然的存在は有限である。&lt;br /&gt;　これは、自然的存在は有限で変化する無常の存在である、という経験的な意識を思弁化しているだけで、論理的な意味はない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一六九節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．個は普遍であるという抽象的判断においては、主語は、否定的に自己に関係するものとして、直接に具体的なものであり、これに反して述語は抽象的なもの、無規定なもの、普遍的なものである。しかし主語と述語とは、「である」によって連関しているのであるから、述語は普遍的でありながらもまた主語の規定性を含んでいなければならない。かくしてこの規定性は特殊性であり、そして特殊性は主語と述語との定立された同一性である。特殊は、かく主語と述語という形式的区別に無関係なものとしては、内容である。&lt;br /&gt;　　主語は述語においてはじめてその明確な規定性と内容を持つ。したがって主語はそれ自身では単に思い浮べられたもの、あるいは空虚な名にすぎない。「神は最も実在的なもの、等々である」とか、「絶対者は自己と同一、等々である」というような判断において、神や絶対者は単なる名にすぎず、主語が何であるかは、述語においてはじめて言いあらわされている。主語が具体的なものとしてその他なお、どのようなものであるかは、この判断には関係がないのである(三一節参照)。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは本質の領域において現実の個別存在を前提としてそこから出発するから、「個は普遍である」という判断を想定している。これはヘーゲルの認識論的な論理構造である。論理の世界に個別は存在しない。論理は純粋有から出発する体系において無限的に個一般に到達する。個を前提して個から出発して真理だとか概念だとかに到達するのはヘーゲルの認識論的な逆立ちである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　判断は個は普遍である、ではなくて現象は本質である、という関係であり、普遍というカテゴリーを使えば、普遍は普遍である、という関係になる。この場合両者ともに無規定ではない。無規定であるのは有の領域の純粋有と無だけである。述語と対立する主語は、述語の内的な普遍である。主語は述語の普遍の否定としての内的普遍の規定である。述語の普遍は主語の普遍との関係においてのみ、主語の規定を含まない抽象的な同一性である。しかし、同一性が変化することにおいて、他の同一性との関係において規定されている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理は概念の外化によって構成されているために、一般に同一性とは概念とその外化の両者の同一性となる。二つの対立物の同一性である。これは運動の原理ではない。論理の展開における同一性とは、変化において変化しないもの、現象の変化において変化しないものである。つまり、ヘーゲルが空虚な抽象物として否定した本質あるいは物自体が同一性である。ヘーゲルの論理には運動の原理としての同一性が存在しない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの普遍＝同一性は運動の原理ではないから、規定が内包関係になる。「述語は普遍的でありながらもまた主語の規定性を含んでいなければならない」というのは逆立ちした論理的関係である。主語は述語の内的な規定であり運動形態である。だから、述語の普遍は主語の普遍の規定性を含むのではなく、述語の普遍の自己否定の運動として主語がある。述語の普遍性は主語の規定として展開される、というのが本質の領域の運動形態である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　個は普遍である、という判断は、現象は本質の運動の個別規定である、という意味を持っている。しかし、ヘーゲルの論理では判断は運動の規定ではなく存在の規定になる。普遍が自己を分割して個になる。普遍の分割であるから普遍と特殊は同一である。ヘーゲルの論理では個と普遍の両者の規定を含む同一性が特殊である。論理の規定が内包関係であれば、個は特殊である、として、特殊が個の規定を内包する関係が生じて第二の特殊が生まれ、無限進行がはじまるる。実際ヘーゲルの概念の自己運動とは、概念の単純な無限分割である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一七〇節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．主語は否定的な自己関係であるから(一六三節、一六六節の註釈)確固とした根抵であって、そのうちに述語がその存立を持ち、観念的に存在している(すなわち述語は主語に内属している)。そして主語は一般にかつまた直接に具体的なものであるから、述語の特定の内容は主語の多くの規定性の一つにすぎず、主語は述語より豊かで広いものである。&lt;br /&gt;　逆に述語は普遍的なものであるから、独立に存立し、或る主語が存在するかどうかには無関係である。それは主語を越えて進み、主語を自分のもとに包摂し、主語よりも広いものである。述語の特定の内容(前節参照)のみが両者の同一をなすのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主語が確固とした根底である、というのは、個別的現実存在を前提とするヘーゲルの論理の特徴である。論理の展開においては、述語が確固とした根底であって、この述語のうちに主語は存立を持っている。主語は述語の内的な運動形式である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは判断における主語と述語の関係を論理的に規定することができていないために、バラは赤い、といった命題が判断にみえる。ヘーゲルはこの命題の構造を、バラが現実の個別存在としての確固とした根底で、赤い、という規定が赤という普遍の規定だと考えている。このような関係においては、主語であるバラの無限の属性の一つを述語が規定しているのだから、主語は述語より豊かで広い、ということになる。&lt;br /&gt;　バラは赤いというのは、経験的な意識形態であって、運動の規定である論理の規定とは違う。バラという同一性は、赤いバラや白いバラといった多様なバラを運動として生み出していく。その過程は本質の領域では必然性と偶然性の関係として規定される。バラは赤い、といった命題の運動を弁証法だと考えるのもやはりヘーゲルの論理の認識論的な逆立ちである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　主語が直接的な存在で、述語はその存在の特定の普遍の規定であれば、主語は述語より豊かで広い。このような存在の規定においては、個別と普遍の一致はありえない。個別の属性を無限に数え上げるとはできないからである。ヘーゲルは現象と本質の関係を共通性としての同一性と考えており、その上で共通性ではない、と主張して同一性を断定しているだけで、同一性とは何かを規定できていない。個(現象)と普遍は運動としてのみ一致するのであり、同一性は本質の領域の運動の基本原理である。運動は常に同一性においてのみ展開されるという意味で普遍は同一性である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理構造は存在の規定であり運動の規定ではない。この意味で論理が逆立ちしているために、述語が主体となり、述語は主語を超えて進み、主語を自分のもとに包摂し、主語より広い、と考えている。しかし、運動の論理においては述語は同一性であるから主語を超えて進むことはない。主語が述語を超えて進むのであり、主語は述語の限界を超えるのであり、主語の展開が述語の普遍よりも広くなるものである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-3151017996780330105?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/3151017996780330105/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=3151017996780330105' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/3151017996780330105'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/3151017996780330105'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/12/blog-post_16.html' title='第三部 概念論 第一六八～一七〇節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-5066893221674214393</id><published>2010-12-13T18:24:00.001+09:00</published><updated>2010-12-13T18:25:02.955+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一六六、七節</title><content type='html'>　一六六節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．判断は特殊性における概念である。というのは、判断は、向自的に存在するものとして定立されている。したがって同時に、相互にではなく自己と同一なものとして定立されている、概念の諸モメントを区別しながら関係させるものであるからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、特殊性における概念とは本質の領域における概念という意味である。向自的に存在するものとして定立されている、とは概念と現実存在、あるいは本質と現象の対立と同一性が定立されている、という意味である。&lt;br /&gt;　判断の研究は、経験的な意識に含まれている限りにおける本質の領域のカテゴリーの研究である。だから、判断の内容の研究は本質の領域のカテゴリーの研究で終わっている。ヘーゲルの概念の図式では自我における意識の段階があるために判断が論理学の内容になる。自我の意識内容という論理の段階も、判断という意識形態の研究も論理学としては必要ないであろう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．--ドイツ語のUrteilという言葉は、語源的に一層深い意味を持っていて、それは概念の統一が最初のものであること、したがって概念の区別が原始的分割であることを言いあらわしている。これが判断の真の姿である。&lt;br /&gt;　抽象的な判断は、個は普遍であるという命題である。これが、概念の諸モメントがその直接的な規定性あるいはその最初の抽象態においてとられる場合、主語と述語とが相互に持つ最初の規定である(特殊な普遍である、および個は特殊である、という命題は、判断のより進んだ規定に属する)。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主語と述語の関係は、本質の領域のカテゴリーを反映している場合がある。それは主語が現象を表わし述語が本質＝普遍を表わしている場合である。この場合主語と述語は、現象は本質である、という関係を規定している。現象と本質が分離されて表現されており、その上で両者の同一性が「である」という繋辞によって示されている。&lt;br /&gt;　概念の最初の抽象的な分割とは、抽象的概念と自我の間にある現実存在の領域＝本質の領域のことである。この領域の関係が、主語と述語の関係においては個は普遍である、という命題となる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルは本質の領域の現象を個と考えているから、本質の領域の関係である判断は個は普遍である、という命題になる。しかし、本質の領域における現象は本質である、という命題は、普遍というカテゴリーを使う場合は、普遍は普遍である、という命題となる。個は普遍である、というカテゴリーの相関は存在しない。論理に個が登場することはない。個は論理の最終的な到達点であるが、それも個一般としてであり、運動一般の規定である論理において個別存在は問題になりえない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　・・これは植物の判断とみることができる。この例はまた、概念も判断も単にわれわれの頭のうちにあるものでなく、また単にわれわれによって作られるものではない、ということをも示している。概念は事物に内在しているものであり、そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っているのである。したがって対象を把握するとは、その概念を意識することである。われわれがさらに対象の評価に進むとき、対象にあれこれの述語を帰するのは、われわれの主観的行為ではなく、われわれは対象を、その概念によって定立されている規定態において考察するのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、植物の判断とは、植物の概念が自己を、胚、根、枝、葉、等々に外化するという意味である。植物は、根となり枝となり葉と分化しつつ同時に植物である。この分化と同一性の定立は主観による定立ではなく、植物自身による定立であり、植物自身の判断である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　判断の規定を見ると、本質の領域におけるヘーゲルのカテゴリーの内容が単純であることがよく分かる。ヘーゲルにおける概念と現実存在、普遍と個の対立と同一性の内容は、ある存在が変化してもその存在であり続ける、という意味である。植物は、胚、根、枝、葉、等々に変化しても植物である、というのは運動についてのもっとも抽象的な経験的な意識である。これは、論理で言えば有の領域の運動形式である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　植物が普遍である場合、対立する個(本当は普遍である)＝現象は、根、茎、葉ではない。植物という普遍に対立する個(普遍)＝現象はバラであり松でありトマトである。植物という普遍＝同一性＝本質に対立する現象は、根や葉ではなく植物の内的な普遍である。バラは植物である、トマトは植物である、という判断はあるが、根は植物である、という判断はない。&lt;br /&gt;　植物は自己を根と葉と茎に分化するのではない。本質の領域における運動としての植物の概念の外化とは、植物という普遍がさまざまの内的な普遍に分化することである。植物は分化の長い過程で例えばバラになり、バラの運動はバラの種類となる。この分化がバラを超える植物を作り出すという運動形態が本質の領域の運動である。&lt;br /&gt;　個別的な抽象的な運動は有の領域で規定されている。場所移動は、ここはここであると同時にここでない。個別存在の運動は、リンゴはリンゴであると同時にリンゴでない。一般的に言えば存在は存在であると同時に存在でない。有は無である、と規定されている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　概念の外化というヘーゲルの図式は、有の領域の運動の規定を本質の領域にも概念の領域にもおしひろげたものである。概念は概念であると同時に概念ではない。概念は概念であると同時に現実存在である、としている。これは有は無であるを、現実存在は概念である、と言い換えたにすぎない。だから、ヘーゲルの弁証法は有の領域の弁証法である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　一六七節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．判断は普通主観的な意味にとられ、自己意識的な思惟においてのみみられる操作および形式と考えられている。しかしこうした区別は、論理の世界ではまだ存在していないのであって、判断は全く普遍的に解せられなければならない。あらゆる事物は判断である。言いかえれば、あらゆる事物は、自己のうちで普遍性あるいは内的本性である個物である。言いかえれば、個別化されている普遍的なものである。普遍と個は、事物のうちで区別されているが、しかし同時に同一でもある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、客観的な論理の世界にはまだ主観的な判断の形式は存在しない。判断は主観における判断である前にあらゆる事物自身の存在形式である。すべての個別存在は個別化された普遍であり、個と普遍は同一である。主観的な判断は、この関係を意識内部で、つまり自己自身において定立している。&lt;br /&gt;　これもずっと続いている繰り返しである。論理的な内容は含んでいない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．われわれが主語に述語を附加するのだと考える、判断の単に主観的な解釈は、「ばらは赤くある」「金は金属である」というような、判断の客観的な表現に矛盾している。われわれがはじめてばらや金に何ものかを附加するのではない。--判断と命題とはちがう。命題は、主語にたいして普遍性という関係を持っていない主語の規定、すなわち或る状態、個々の行為といったようなものを含んでいる。例えば、カエサルは某年ローマに生れたとか、十年間ガリアで戦ったとか、ルビコン河を渡った、というようなのは、命題であって決して判断ではない。さらにまた例えば、「私は昨夜よく眠った」とか、「捧げ銃」というような命題を、判断の形式に変えることができると言うのは、全く無意味である。「馬車が通っている」というような命題は、通っているものが馬車であるか、動いているのは対象であって、それをみるわれわれの立場ではないか、というようなことが疑わしい場合にのみ、主観的判断ではあるがとにかく判断となるであろう。一口に言えば、まだ確定されていない表象をわれわれが確定しようとする場合にのみ、そうした命題も判断となるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、主語と述語の関係が判断として論理的な意味を持つのは、個は普遍である、という関係を持つ場合だけである。それが運動を規定しているからである。「バラが赤くある」と「金は金属である」という命題では、「金は金属である」は判断であるが、「バラは赤くある」は判断ではない。しかし、ヘーゲルの論理は一般的な運動の規定ではない。だから判断の特徴は規定されていない。ある命題が、まだ確定されていない表象をわれわれが確定しようとする場合でも、普遍と普遍の関係を規定しているのでない場合は、その命題は判断ではない。正しい規定かどうかは主語と述語の関係が判断であるかどうかとはまったく関係がない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは判断が単に主観的ではなく客観的な意義を持っている、と強調している。ところがヘーゲルにとって判断の客観性は、「まだ確定されていない表象をわれわれが確定しようとする場合にのみ、そうした命題も判断となるのである。」ということと関係しているのだから、判断の客観性は結局ばかばかしい意味を持つことになっている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-5066893221674214393?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/5066893221674214393/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=5066893221674214393' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/5066893221674214393'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/5066893221674214393'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html' title='第三部 概念論 第一六六、七節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-5140616627180669807</id><published>2010-12-09T18:35:00.001+09:00</published><updated>2010-12-09T18:36:14.947+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第三部 概念論 第一六四、五節</title><content type='html'>　一六四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．概念は絶対に具体的なものである。なぜなら、個がそうであるような、即自かつ対自的に規定されたものとしての自分自身との否定的統一が、それ自身概念の自分自身との関係、すなわち普遍性をなしているからである。概念の諸モメントはこのかぎりにおいて不可分のものである。反省の諸規定は、対立した規定からはなれて各々それだけで理解され妥当するという意味を持っているが、概念においてはそれらの同一性が定立されているから、概念の諸モメントの各々は直接に他のモメントから、また他のモメントとともにでなければ理解できないものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念は空虚な抽象ではなく具体的である、というのがヘーゲルの論理の主眼で、具体の規定はヘーゲル哲学を理解する鍵でもある。概念は自己を分化して自己の諸モメントを生み出し、その諸モメントの関係を自己の全体としている。概念の具体性は、個別的存在という意味での具体性ではなく、概念は自己内に区別と統一を持つという意味で具体的である。具体的とは自分自身との否定的統一であり、概念の自分自身との関係であり、諸モメントの不可分の関係である。&lt;br /&gt;　概念の具体性は概念内部における分化とその統一である。カテゴリーの関係を分離するとカテゴリーは抽象的になる。カテゴリーは他のカテゴリーとの関係において具体的であり、カテゴリーの具体的な内容は他のカテゴリーとの関係においてのみ規定できる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　要するに、概念は概念として具体的な規定を持っており、具体的な規定の相互関係においてカテゴリーの内容を規定できる、という意味である。これは論理についての抽象的な規定としては正しい。しかし、ヘーゲルの場合は、概念は現実的存在のあらゆる規定を自己内に持っている、という意味になる。この場合はカテゴリーの相互関係の他に存在の規定を含むことになり、論理の内容は混乱する。&lt;br /&gt;　論理学は、運動の一般的な規定を存在の規定から分離して規定する。概念、論理は存在の規定を体系化するのではない。無論概念、論理が現実存在を作り出すのでもない。一般的運動法則の規定がカテゴリーである。だから、論理学はカテゴリーだけの体系である。論理の具体性とはカテゴリーの相互関係である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの弱点は、前者、即ち存在の規定を体系化することである。この点を批判しないと、論理が存在を生み出す、という神の論理、観念論、逆立ちを批判することはできない。&lt;br /&gt;　このあとも一六三節と同じ内容をくり返している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．--概念は絶対的形式そのものであるから、規定されたもののすべてであり、しかも規定されたものの真実の姿である。したがってそれは、抽象的ではあるが、同時にまた具体的なものであり、しかも全く具体的なもの、主体そのものである。絶対に具体的なものは精神であるが(一五九節の註をみよ)、精神が客観から自己を区別しながら--もっとも客観は区別されながらも、あくまで精神のものであるが--概念として現存するかぎり、絶対に具体的なものは概念であるとも言える。その他すべての具体的なものは、それがどんなに豊かであろうと、これほど内的に自己同一ではなく、したがってそれ自身に即してこれほど具体的ではなく、せいぜい普通人々が具体的と考えているようなもの、すなわち外的に結合された多様にすぎない。--人間とか、家とか、動物のようなものも概念、しかも特定の概念と呼ばれているが、これらは単純な規定を持った抽象的な表象にすぎない。これらの抽象物は、概念からただ普遍性の契機をのみ取り上げて、特殊と個は捨象しているのであり、したがってそれら自身に即して発展させられていず、まさに概念を看過しているのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、具体性とは自己内に区別を持つ統一である。自己内での区別であるから、自己内で区別を生み出す主体だけが真に絶対的に具体的である。これだけのことをヘーゲルは雄弁に多弁にくり返し規定しており、さらに「外的に結合された多様性」である現実存在との違いをくり返している。ヘーゲルが具体性の規定に苦労していることがわかる。ヘーゲルは概念は概念として具体的な規定を持つ、という当然のことを主張しているだけだから経験的な意識には分かりやすいが論理的には理解しにくい。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルは具体性を普遍と個別の一致、あるいは概念と現実の一致として位置づけようとしているが、普遍と個別の一致は断定されているだけで、証明されておらず展開されていない。概念が個別をも現実存在をも生み出したものであり、それは概念自身だ、として両者を同一化しているにすぎない。対立物の一致をカテゴリーの展開のなかに持ち込むことは論理的な規定ができないことを示している。これがヘーゲルの論理構造の基本的な弱点である。本質と現象、普遍と個別の対立は運動の原理であり、一致とは具体的な運動形態である。一致の規定、つまり具体性とは運動の規定である。普遍と個別は分離し対立し、その分離と対立の展開が両者の具体的な一致である。分離と対立が一致の内容であるから、分離と対立が大きいほど一致は具体的になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　一六五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．個のモメントがはじめて概念の諸モメントを区別として定立する。なぜなら、個は概念の否定的な自己内反省であり、したがって最初の否定としてまず概念の自由な区別であるからである。これによって概念の規定性が定立されるが、しかしそれは特殊として定立される。言いかえれば、区別されたものは第一に、相互に概念の諸モメントの規定性を持つにすぎないが、第二には、一つのモメントが他のモメントと同じであるという同一性も同じく定立されている。かく概念の特殊性が定立されたものが判断である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、自我において概念の諸モメントが観念として定立される。自我の活動はまず概念の自由な、つまり概念自身における区別であり、概念の最初の否定＝規定である。自我において概念はまず普遍と個別のモメントに区別され、この区別されたモメントの同一性が定立される。普遍と個別の区別と同一性の定立が判断である。自我において概念の規定は判断から始まる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルが、そして形式論理学が判断を問題にするのは、本質の領域のカテゴリーの相関が経験的な意識の中に見られるからである。本質の領域では本質と現象が分離している。判断という意識形態は、本質と現象の区別と同一性の定立を含んでいる。判断は、現象は本質である、というカテゴリーの関係を含んでいる。これが主観の経験的な意識にも現れているから、ヘーゲルは自我による概念の定立だと考えている。しかし、本質の領域のカテゴリーも、内容は客観的であるが主観が定立したものである。だから、本来判断の内容は本質の領域において規定されているものであって、論理学が判断として規定しなおす必要はない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-5140616627180669807?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/5140616627180669807/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=5140616627180669807' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/5140616627180669807'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/5140616627180669807'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/12/blog-post_09.html' title='第三部 概念論 第一六四、五節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-2624478613749790467</id><published>2010-12-05T21:06:00.001+09:00</published><updated>2010-12-05T21:07:28.674+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一六三節</title><content type='html'>　一六三節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．概念そのものは、次の三つのモメントを含んでいる。(1) 普遍--これは、その規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性である。(2) 特殊--これは、そのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態である。(3) 個--これは、普遍および特殊の規定態の自己反省である。そしてこうした自己との否定的統一は、即自かつ対自的に規定されたものであるとともに、同時に自己同一なものあるいは普遍的なものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの論理構造は、実体が具体化して現実存在となる体系である。逆に言えば、現実存在は実体の具体化である。普遍も特殊も個も実体の形式の変化である。実体はすべての規定態の背後で同一性を貫いている。だから、実体はあると言われているだけで、本当はあってもなくても同じである。&lt;br /&gt;　特殊は普遍が現実化した規定態一般である。規定態一般は特殊と個に分かれる。特殊は普遍が現実化して普遍と現実存在が直接的に一致したものである。個は普遍と特殊の関係がより発展して分離を含んでいる。特殊は、普遍と現実性の統一が自己内反省として媒介を含んで実現されたものである。&lt;br /&gt;　これは経験的に言えば、普遍は客観的概念である。特殊は概念が外化した現実存在である。個は規定態において自己反省しており、概念が二重化している現実的存在、つまり自我である。自我は現実存在であると同時に概念的存在である。&lt;br /&gt;　さらに換言すれば、普遍は論理法則、特殊は自然法則、個は社会法則である。ただし、このような区別が含まれているだけで、ヘーゲルはこのように明確に区別しているわけではなく、むしろ、こうした区別が成立しはじめたことを理解してそれを統一しようとしている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．個は現実的なものと同じものであるが、ただ個は概念から出現したものであるから、自己との否定的同一としての普遍的なものとして定立されている。現実的なものは即自的にのみ、すなわち直接的にのみ、本質と現存在との統一であるにすぎないから、それは産出することもできるものにすぎない。しかし概念の個別性は、絶対的に産出するものであり、しかも原因のように、他のものを産出するという仮象を持たず、自分自身を産出するものである。--しかし個は、われわれが個々の物や個々の人と言う場合に意味するような、単に直接的な個の意味に解されてはならない。こうした意味を持つ規定された個は、判断においてはじめてあらわれる。概念のモメントの各々は、それ自身全体的な概念なのであるが(一六〇節)、しかし個、主体は、統体性として定立された概念である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、自然的現実存在は、概念と現存在の直接的な即自的な統一である。自我も概念の外化としての現実存在であるが、自己否定的な意識＝概念を持つ普遍的存在である。自我は現実的存在内部において概念と媒介的関係を持っている。自然的存在は直接的に概念そのものであるから、自己内から概念を生み出す可能性を持っている。その可能性が現実化した自我は産出する力を持っている。しかも、他のものつまり現実存在を生み出すのではなく、概念自体を生み出すものである。&lt;br /&gt;　個は特定の個人ではない。一般的自我である。概念を生み出す概念的自我、という意味である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺一　・・しかし概念の普遍は、それにたいして特殊が独立の存在を持っている共通なものとはちがう。それは自ら特殊化するものであり、他者のうちにありながらも、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっているものである。認識にとっても実践にとっても、単に共通なものを真の普遍と混同しないことが大切である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、共通性としての普遍は抽象的であり、現実存在と対立する。概念の普遍は現実存在と対立するのではな。概念の普遍は自ら特殊化することで、現実存在と一致している。&lt;br /&gt;　ヘーゲルはあらゆる矛盾を概念と現実存在、普遍と特殊の同一性として片づける。ヘーゲルは対立と同一性を並列しているだけである。この対立と同一性が具体的な規定として展開され、発展していくのが弁証法の内容である。しかし、ヘーゲルは対立物の同一性から先に進まない。&lt;br /&gt;　このあと、特殊を含む普遍性の意識に到達するには自我の歴史的発展が必要であった、と指摘している。これは、自我が自我として独立的な存在になり、独立的な意識を持ち、なおかつ普遍性あるいは概念を意識することができるようになるにはキリスト教的な意識が必要であった、という歴史の表面的な事実の指摘であって、論理的な意味はない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．--上に述べた単なる共通性と真の普遍性との相違は、ルソーの有名な社会契約のうちに見事に言いあらわされている。ルソーは、国家の法律は普遍的意志から生じなければならないが、といって決して万人の意志である必要はない、と言っている。もしルソーが常にこの区別を念頭においていたら、かれはその国家論にかんしてもっと深い業績を残したであろう。普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、普遍的な意識とは、個別意識の集合だとか平均だとか、要するに存在から抽出されるものではなくて、存在の背後、あるいは内部にある概念である、という意味である。このような普遍的な意識がどのようなものであるかは歴史学の課題であって論理学の課題ではない。もともと普遍性は共通性ではないといった指摘によって普遍性を規定できるわけではないので、こんな指摘は余計である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺二　概念の発生および形成にかんして悟性的論理学が普通与えている説明について、なお注意すべきことは、概念は決してわれわれが作るものではなく、また概念は全く発生したものではないということである。概念は単なる有あるいは直接的なものでなく、媒介をも含んではいるが、しかしこの媒介は概念自身のうちにあるのであって、概念は自分自身によって、自分自身と媒介されたものである。まずわれわれの表象の内容をなしているさまざまの事物があり、その後に主観的活動が行われ、そしてこの主観的活動がそれらに共通なものを抽象し総括する働きによって概念を作る、という風に考えるのは誤りである。概念は真に最初のものであり、さまざまの事物は、それらに内在し、それらのうちで自己を啓示する概念の活動によって、現にそれらがあるような姿を持っているのである。神は世界を無から創造したとか、あるいは世界および有限な諸事物は神の豊かな思想と意志とから生じたとか言われるのは、このことを宗教的に言いあらわしたものである。そしてそれは、思想が、もっとはっきり言えば、概念が、無限の形式、すなわち自由な、創造的な活動であって、自己を実現するのに、自己は外に存在する材料を必要としないことを認めているのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの概念の課題は、概念と存在の統一、普遍と個別の統一である。この統一を規定するためには概念は主観が作るものではなく、客観的に存在するものでなくてはならない、とヘーゲルは考えている。概念が主観の構成物であったり、あるいは現実存在の表象のなかから発生してきたものであれば、概念は表象のさまざまの内容から、それに共通のものを抽象し総括することによって主観が作り出すか主観の中で発生するものとなる。&lt;br /&gt;　現実存在が概念から独立した存在であり、存在についての認識が概念であれば、概念は表象から出発して主観が作り出すことになる。この場合は、現実存在と概念が分離されることになる。だから、ヘーゲルは認識論の限界をも克服するために、客観的概念の自己運動という図式を作り上げた。&lt;br /&gt;　概念は実存在の表象から主観が作り出すのではなく、逆に概念が最初のものであり、概念が現実存在を作り出す。だから、思惟は現実存在を認識するのではなく、現実存在を通して現実存在の本質である概念を認識する。主観が現実存在の中から概念を作り上げるのではなく、概念が現実存在をも主観をも作り出す。概念がすべてを作り出すという観念論的な逆立ちによって、主観的な概念と客観的概念の一致が可能になる、とヘーゲルは考えている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの図式は、概念と現実存在は同じである、と断定しているにすぎない。この図式では主観と客観の関係を規定することはできず、認識論の限界を超えることもできない。哲学＝論理学としての概念は客観的世界の反映として主観が作り出すものである。しかし、論理学は経験科学と違って具体的な対象を持たないから、客観的世界の何を反映しているのかが分からなかった。そのためにヘーゲルは論理を主観から独立的なという意味で客観的な、そして、経験科学から独立した、経験科学の普遍という意味で絶対的な概念とした。そして観念論者として一歩踏み込んで、この客観的概念は客観的世界から独立した精神である、と考えた。&lt;br /&gt;　これがヘーゲルの逆立ちである。論理学は主観から独立した客観的世界の反映であり、そして経験科学から独立した学問であり、その内容は客観的世界の一般的な運動法則である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-2624478613749790467?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/2624478613749790467/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=2624478613749790467' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2624478613749790467'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2624478613749790467'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/12/blog-post_05.html' title='第二部 本質論 第一六三節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-5526323381542666946</id><published>2010-12-02T17:32:00.001+09:00</published><updated>2010-12-02T17:33:46.837+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一六一節</title><content type='html'>　一六一節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照でもなく、発展である。なぜなら、概念においては、区別されているものが、そのまま同時に相互および全体と同一なものとして定立されており、規定性は全体的な概念の自由な存在としてあるからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは有の領域と本質の領域と概念の領域を、移行、他者への反照、発展という三つの段階に分けている。ヘーゲルの論理は、有の領域の移行も本質の領域の反照も主観的概念の領域の発展も、すべて抽象的な対立物の統一を内容としている。ヘーゲルの対立物の統一の内容は有の領域に止まっており、この三つの領域の区別はできていない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。概念の運動は、これに反して、発展である。発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する。胚はそのうちにすでに植物全体を含んでいる。といっても、それは観念的に含んでいるのであって、したがってその発展は、植物の諸部分である根や茎や葉などが、非常に小さい形でではあるが実在的に、胚のうちに存在している、という風に解されてはならない。これはいわゆる「箱詰めの仮説」であって、その欠陥は、観念的にのみ存在しているものを、すでに現存在しているものとみるところにある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念の運動は、本来は、有の領域と本質の領域と概念の領域のカテゴリーの運動の全体である。無機的自然でも有機的生命でも社会法則でも、抽象的な発展形態は有の領域で規定されているカテゴリーと同じである。概念の領域のカテゴリーの内容は、社会法則と主観の相関関係の具体的な規定である。&lt;br /&gt;　発展する事物が変化において同一性を保っていること、つまり、胚から、根、茎、葉へと変化していくものが一つの生命体であることは、経験的な意識として誰でも知っている。胚の中に小さな根や茎や葉が含まれているのではない、というのは余計な説明であるが、ヘーゲルの論理はこのような説との区別を必要とするほどに単純である。現実存在として小さな形で含まれているのではなくて、観念として含まれている、と変更しても大した違いではない。&lt;br /&gt;　石は石であると同時に石ではない。リンゴはリンゴであると同時にリンゴではない。ここはここであると同時にここではない。今は今であると同時に今ではない。すべての存在は無を含んでおり変化している。これが有の領域の規定であり、有と無の統一である。ヘーゲルは概念の領域をもこの有の領域の変化として規定している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．他方この仮説の正しい点は、概念がその過程において自分自身のもとにとどまり、過程は内容上なんらの新しいものをも定立せず、ただ形式上の変化をひき起すにすぎないということである。人間は生得観念を持っていると主張する人々や、プラトンのように、あらゆる学習を単なる想起とみる人々が念頭においているのも、その過程において自己を自分自身の展開として示す、こうした概念の本性なのである。もっとも、このこともまた、教授によって形成された意識の内容をなすものが、その意識のうちに前もって発展した形で存在している、という意味に解されてはならない。--概念の運動は言わば遊戯にすぎないとみることができる。その運動によって定立される他のものは、実は他のものではないのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの発展とは概念の外化である。概念は変化のうちにあって同一である。要するに変化とは概念の変化である。ヘーゲルの概念の規定は有の領域の運動の規定である。運動とは一般に同一性における変化である。同一性がなければ変化ではなく消滅である。&lt;br /&gt;　有の領域は運動の一般的原理の規定である。換言すれば同質性における変化である。本質の領域は同一性の変化、質の他の質への変化の規定の領域である。近代哲学の論理の規定の主な困難は、同一性自身の変化を規定することであり、その基礎が物自体と現象の分離である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは物自体と現象の分離を否定して、物自体と現象の関係を単純な移行の弁証法に解消した。すべての存在は変化しており、すべての変化は同一性においてのみ起こることを経験的に誰でも知っている。問題はこの同一性における変化はどのような法則性を持つかである。ヘーゲルは変化においても概念は同一である、という一般的な規定に止まっている。&lt;br /&gt;　物自体は現象に移行しない。物自体と現象は分離しており、分離の発展が両者の一致の形式であり、変化の具体的な規定である。無機物の世界から有機物の世界へ、植物が動物へと、また、より狭い普遍性においては爬虫類が両生類へと、猿が人間へと変化する過程をカテゴリーとして規定するのが本質の領域である。ヘーゲルの論理構造は質の他の質への変化を規定しておらず、多様な質は概念の外化、措定の結果である、としているだけである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　一六二節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲル的図式の概論。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-5526323381542666946?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/5526323381542666946/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=5526323381542666946' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/5526323381542666946'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/5526323381542666946'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/12/blog-post.html' title='第二部 本質論 第一六一節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8747140876604896222</id><published>2010-11-29T18:44:00.002+09:00</published><updated>2010-11-29T18:44:50.198+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一六〇節</title><content type='html'>　一六○節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．概念は向自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念はまた体系的な全体であって、概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。したがって概念は、自己同一のうちにありながら、即自かつ対自的に規定されているものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念は実体的で自由で体系的で諸モメントの統一体として定立されている。これは、概念は空虚な抽象体ではなくて、内部に区別を持つ媒介的な全体であり、この意味で具体的な内容を持っている、という意味である。ヘーゲルは概念が具体的な内容を持つことの意味を概念と現実存在の一致と考えている。しかし、この方法では概念を具体化することはできない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　概念の立場は一般に絶対的観念論の立場であり、哲学は概念的認識である。というのは、哲学はその他の意識が存在するものとみ、またそのままで独立的なものと考えているものが、単に観念的なモメントにすぎないことを知っているからである。悟性的論理学においては、概念は思惟の単なる形式、あるいは一般的な表象と考えられている。概念は生命のない、空虚な、抽象的なものだという、感情や心情の側からしばしばなされる主張は、概念にかんするこうした低い理解にのみあたるのである。実際においては事情はまさに逆であって、概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、すべての存在は概念のモメントである、絶対的観念論とはすべての存在を概念として認識する、という意味である。現実存在を独立的なものとして前提すると、現実存在をに取り込むことになり、概念の内容が現実存在であることになると、概念自身は空虚な抽象物になる。ヘーゲルはこの問題を解決するために、概念がすべての存在を生み出すのであり、生命の原理であり、具体的な現実存在を生み出すものであり、もともと概念の内容として含まれたものである、としている。&lt;br /&gt;　このヘーゲルの図式は二重に間違っている。第一に、概念が現実存在を生み出すことはない。これは観念論の間違いである。第二に、概念が存在を生み出すこと、あるいは概念が対象の存在の規定性を生み出すとという意味であっても、間違いである。ヘーゲルの概念は存在の規定の体系化である。それは経験科学が作り上げた普遍性を纏めるだけの余計な仕事である。論理的に言えば、現実存在は認識のモメントあるいは概念のモメントではなく、運動のモメントである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．概念は形式と考えられないこともないが、しかしその場合それはあらゆる豊かな内容を自己のうちに含み、また自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式と考えられなければならない。同様にまた概念は、われわれが具体的なものという言葉のもとに、単に感覚的に具体的なもの、すなわち直接に知覚できるものを理解するとすれば、抽象的なものと名づつけられないことはない。なぜなら、概念は手でつかめるものではないし、一般に概念を問題とするとき、目や耳は用をなさないからである。にもかかわらず概念は、前にも述べたように、同時に絶対に具体的なものである。というのは、概念は有および本質を、したがってこれら二つの領域の富全体を、観念的な統一において自己のうちに含んでいるからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念は精神であり思惟であるから、感覚と感覚的対象から区別される。感覚的対象の具体性と思惟規定の具体性が違うことは経験的な意識にとっても理解しやすい。概念の具体性は概念の抽象性と対立するのであって、感覚の具体性と対立するのでないことはいうまでもないことである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　では、概念の具体性とはどういうことか。&lt;br /&gt;　概念は自己の中から存在を生み出し再びそれを自己のものとする。ヘーゲルの言う具体性は、概念が自己分割と統一という媒介性を持つことである。ヘーゲルはカントの物自体が現象と分離されているために空虚な抽象物になっていると批判している。ヘーゲルは物自体のこの抽象性を克服するために、物自体と現象の媒介的な統一性、つまり具体性をくり返し主張している。ヘーゲルは結局のところ、物自体と現象は同一である、とカントの分離の逆を主張しているだけであり、物自体と現象の関係を規定しているわけではない。&lt;br /&gt;　概念が現実存在とその規定を生み出すのであり、現実存在のすべては概念のモメントにすぎない、という図式を作っても概念は具体化しない。現実存在の規定は概念の内容とは区別されねばならない。物自体と現象の区別において始めて存在の規定と区別された概念の内容を規定することができる。&lt;br /&gt;　物自体と現象の分離は、現実存在を運動として規定するための本質の領域の基本原理である。ヘーゲルの論理の基本構造はこの分離を解消しているために論理の世界に入ることができない。ヘーゲルは存在の規定と運動の規定を分離するのではなく、現実存在と概念＝思惟を分離して、その統一を具体的規定だと考えている。これは現実存在の認識というだけのことである。論理学の内容は現実存在の規定ではなく、運動の一般的規定である。運動の一般的規定としてのみ論理の規定性は具体的である。存在の具体的規定は経験科学の内容である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．われわれは或る内容を概念から導き出すと言う。例えば、財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出すと言い、また逆にそうした内容を概念に還元すると言う。これは概念が本来無内容な形式にすぎないものではないことを認めているのである。というのは、もし概念がそうしたものであったら、何ものもそれから導き出せないであろうし、また与えられた或る内容を概念という空虚な形式に還元したところで、内容はその規定性を失うだけで、認識されはしないだろうからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、われわれは或る内容を概念から導き出すのではない。客観的な現実から概念あるいは普遍性を導きだす。経験科学の普遍性からも、哲学の普遍性からも、普遍性からある内容を導き出すことはできない。どのような内容であっても、現実存在からのみ導き出すことができる。&lt;br /&gt;　現実存在は普遍性あるいは法則性において存在する。ある存在の認識とはその普遍性の認識である。この普遍性は現実存在の普遍性として導き出したものであり、対象自身の普遍性であるから、われわれは常に蓄積された普遍性によって対象を認識する。対象の認識にはそれまでに蓄積された普遍性を導きの糸として対象を認識している。個別の対象の認識においてその都度初めから普遍性を作り出すことはできない。経験的な意識においても蓄積された普遍性によってのみ対象を認識するのであって、個別対象を個別性において認識することはできない。&lt;br /&gt;　人類の誕生以来対象の普遍性の規定を蓄積してきたのだから、普遍性を導きの糸として、それを出発点として対象を認識する。しかし、すべての存在は普遍性の無限の交差のうちにある。だから対象の認識は、ある普遍性の認識を出発点として常にさらなる普遍性に深まるのであって、ある普遍性の中に個別対象を取り込むのではない。さらには、現実にはそれまでに蓄積された普遍性を超えた普遍性が常に生まれているし、また発見されるものである。だから、対象の認識は対象の普遍性の認識であると同時に、客観的にも認識の運動としても常に新たな普遍性の形成過程である。だからこそ、蓄積された普遍性を前提としてそれを超えていかねばならない。蓄積された普遍性を超える普遍性は対象自身からのみ導き出すことができる。&lt;br /&gt;　認識の発展がこのような形式をとるために、認識が独立的な形式であると考えられ、またヘーゲルのように関係が逆転して認識が対象を生み出すとも考えられた。しかし、どのような場合でも対象の認識は対象から導き出されるのであって、或る内容を概念から導き出すのではない。&lt;br /&gt;　財産の概念はある限界内で一般的な規則として対象認識に利用される。しかし、それでも対象自身の具体的内容が常に優先されるのであって、一般的な規則、普遍性が対象を生み出すのではないし、対象の認識を生み出すのでもない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　論理学は蓄積された普遍性のもっとも深い一般的な規定を体系化している。論理学によって具体的な対象の認識をすることはできないし、するのは間違いである。&lt;br /&gt;　論理学は、経験科学の普遍性と違って存在の普遍性ではなく、存在の普遍性の普遍性である運動の規定であるから、存在の規定性には直接かかわらない。そのために哲学は特別な学問であり、すべての学問の学問としてもっとも深い普遍性である。だから、論理は存在の規定性に関わることはなく、存在の規定を生み出すのではない。論理を存在の普遍的な規定として理解すると認識論にになり、方法論になり、教条になり、思弁哲学になる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8747140876604896222?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8747140876604896222/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8747140876604896222' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8747140876604896222'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8747140876604896222'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html' title='第二部 本質論 第一六〇節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-2178873016694163216</id><published>2010-11-21T01:15:00.002+09:00</published><updated>2010-11-21T01:15:41.947+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一五九節</title><content type='html'>　一五九節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．かくして概念が有および本質の真理である。というのは、概念においては自分自身への反省という反照が、それ自身同時に独立的な直接性であり、さまざまの現実のこうした有が直接に自分自身への反照にすぎないからである。&lt;br /&gt;　　概念は自己を有および本質の真理として示し、両者はその根拠たる概念へ帰ったのであるが、このことによって概念は、逆にまた、その根拠たる有から自己を展開したのである。この進展の前の側面は、有が自分自身のうちへ深まり、有の内部がこの進展によって開示されたとみることができるし、後の側面は、より不完全なものからのより完全なものの出現とみることができる。人々はこのような発展を後の面からのみみることによって、哲学を非難したのである。より完全なものとより不完全なものというような表面的な観念がここで持っている、より具体的な内容は、自己との直接的な統一としての有と、自己との自由な媒介としての概念との相違である。ところで有は概念の一モメントであることが明かになったのであるから、これによって概念は、有の真理であることが明かになったのである。概念はこのような自己内反省であり、媒介の揚棄であるから、それは直接的なものを前提する。しかしこの前提は自己内反省と同一なものであって、この同一性が自由および概念を構成している。したがって、もしモメントを不完全なものと呼ぶとすれば、完全なものである概念は確かに不完全なものから発展する。なぜなら、概念は本質的にその前提を揚棄するものであるから。しかしそれと同時に、因果性一般、特に交互作用において明かになったように、自己を定立しながら自己の前提を作るものは、概念そのものなのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの論理では、本質の領域は概念と有の相関関係の領域である。対立する両者の一致が真理であり、概念である。この両者の関係は様々の形式で規定されているが、内容は両者の往復運動のくり返しである。ここでは、同じ往復運動が次のように変形して展開している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　概念は、外化して自己を有および本質の真理であることを示す。逆に言えば、有と本質の真理は概念である。&lt;br /&gt;　これを逆の過程として言えば、有および本質は自己の根拠である概念に帰ることになる。&lt;br /&gt;　概念が有と本質へと外化する過程は、有が自己内へ深化して自己を開示することである。&lt;br /&gt;　この過程は、より不完全なものからより完全なものの出現の過程である。&lt;br /&gt;　不完全なものとは、自己との直接的な統一である有であり、自己の本質が外に出ていないことである。&lt;br /&gt;　より完全なものとは、自己との自由な媒介である概念である。自己との媒介である概念とは、直接的な有を前提としてそれを揚棄したもの、本質化したもの、という意味である。&lt;br /&gt;　この全体の過程を概念として纏めると、概念は自己を定立しながら自己の前提を作る、と規定できる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　このように、ヘーゲルの論理では本質と有の対立と一致が概念である、とう構造である。本質と有は直接的に対立して、それぞれが相互に対立物を生み出す関係にある。それだけの関係である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆきは、最も困難なものである。というのは、独立的な現実は移行および他の独立的な現実との同一のうちで、その実体性のすべてを持っているものと考えられなければならないからである。概念もまた、それ自身がまさにこうした同一性であるのだから、最も困難なものである。しかし現実的な実体そのものである原因が、その向自有においては、何ものをも自己のうちへ侵入させようとしないものでありながら、しかもすでに被措定有へ移行するという必然あるいは運命を持っているということ、このことがむしろ最も困難なことである。必然を思惟するということは、これに反して、むしろこの困難の解決である。なぜなら思惟するということは、他のもののうちで自分自身と合致することだからである。この合致は自由になることを意味するが、しかもその自由は捨象による逃避ではなく、現実的なものが必然の力によって結びつけられている他の現実のうちで、自己を他のものとしてでなく、自分自身の有および定立として持つという自由である。この自由は、向自的に存在するものとしては自我と呼ばれ、統体性へ発展したものとしては自由な精神と呼ばれ、感情としては愛と呼ばれ、享受としては浄福と呼ばれる。--スピノザの偉大な実体観は、有限なものの独立からの解放を即自的に含んでいるにすぎないが、概念そのものは必然の力と真、の自由を実現するものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆき、とは、現実存在の必然性から精神の世界への移りゆき、さらには両者の一致である。逆の過程も両者の一致である。客観的にはこの移行は困難ではなくて、あり得ない。せいぜい客観的世界の認識を両者の一致と言うことができるし、ヘーゲルはそのように規定しているが、それではギリシャ以来の哲学の難題の解決にならない。ヘーゲルは哲学の基本課題を間違えてこのように捉えている。それがヘーゲル哲学の論理構造の逆立ちである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　現実存在は現実において現実存在としての同一性のうちに自己の実体を持っている。また、概念は同様に概念世界においてそれ自身の同一性のうちに自己の実体を持っている。&lt;br /&gt;　現実存在と概念という独立的な実体的存在はどのように一致するのか、し得るのか、というのがヘーゲル哲学の基本課題である。客観的に概念が現実存在に移行し、現実存在が概念に移行することを証明することは不可能であるが、ヘーゲルの論理では、概念と現実存在の一致を実現するのが思惟であり、思惟による現実存在の認識である。これは難問でもなんでもない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルはこの一致を一元論的に展開するために、概念を基礎において客観的世界と認識主観の両者を概念が作り出す過程として規定している。現実存在と概念の一致は、概念が現実存在と主観の両方を作り出して、主観による現実存在の認識という一致を作り出す自己自身の過程である、という体系を作り出している。しかし、結局両者の一致は、主観による対象の認識に到達するだけである。&lt;br /&gt;　主観が概念に到達し、現実存在と一致するにいたった自我の状態が、自由な精神であり、愛や浄福といった感情を持つに至ることである。ここにおいて自我は主観的概念の限界を超えて、現実の必然性と一致することになる。現実存在自身が概念にまで高まって、現実存在の発展である自己自身を認識することができる。これが概念の完成である。&lt;br /&gt;　以上がヘーゲルの図式である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　現実存在の必然性を認識することが真理であり概念であれば、両者の一致の課題は複雑な問題を含まない。それはすべての経験科学の課題であり、認識は無限の過程として現実存在と一致している。経験科学の総体と無限の発展が現実存在の無限性と一致する。ヘーゲルにとっての哲学上の基本的な対立は現実存在と人間の精神の対立であり、その対立は対象認識によって解決される。そのために、哲学の発展は認識の発展になり、カテゴリーの規定は認識の発展形式の体系的な規定となる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　しかし、哲学上の難問は、存在の規定とその普遍性である運動の規定を分離し、運動の一般法則を規定することである。この場合は主観と客観の対立ではなく、客観的な法則自体の対立と統一である。&lt;br /&gt;　主観と客観の対立の一致は客観的世界の認識であり、客観的世界と認識の一致が真理である。しかし、この一致は経験科学の総体の無限的発展では実現できない。客観的世界の認識のためには、経験科学の総体の他に論理学が必要である。論理学は客観的存在を一般的な運動法則として規定する。この課題にける難問は、客観的存在の質的多様性を運動の法則としてどのように規定するかである。ヘーゲルの論理構造は質的多様性を前提として、その多様な現実存在は概念の外化である、としているだけであって、存在の多様性の形成過程を運動として規定しているのではない。そのためにヘーゲルの弁証法は固定的な、運動のない規定になっている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理では、自由も必然性と主観の関係になり、必然性の認識による必然性と主観の一致が自由である。しかし、人間は客観的存在であり客観的必然性の一契機であり構成要素である。人間の自由はこの必然性内部における分離を意味している。ヘーゲルの規定とは逆に、自由は必然性内部における分離、対立がまず第一の規定である。ヘーゲルの一致は直接的であって、カテゴリー上の媒介が存在せず、媒介的な分離の規定が存在しない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　本節でそうしたように、概念を有および本質の真理と呼ぶならば、なぜ概念からはじめないのかという質問を覚悟しなければならない。その答は、思惟的認識が問題になっているかぎり、真理からはじめることはできない、ということである。なぜなら、真理がはじまりをなすとき、真理は単なる確信にもとづくにすぎないが、思惟された真理なるものは、その本性上、思惟にたいして確証されたものでなければならないからである。もしわれわれが概念を論理学の先頭において、それを有と本質との統一と定義するとすれば、このことは内容上正しいにはちがいないが、しかし次のような質問、すなわち、有および本質のもとに何を考えたらいいのか、そして有および本質はいかにして概念の統一へ総括されるようになるのか、という質問がおこるであろう。それでは、われわれは名称の上でのみ概念からはじめたにすぎず、事柄から言えば、そうでなかったことになるであろう。したがって本当のはじまりは有からなされ、その点本書でなされているのと同じことになるであろう。ただこの場合、有の諸規定のみならず本質の諸規定も、直接に表象から採用されざるをえないだろうという相違がある。私はこれに反して、有および本質をその弁証法的発展において考察し、それらが自己を揚棄して概念の統一となるものであることを認識したのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの論理では概念が存在と本質の真理である。もしそうであれば、概念から始めて、存在と本質が一致している概念だけを展開すべきである。認識論の立場で、間違った認識からはじめて正しい認識に到達する過程を規定する必要はない。存在と本質がどのように一致しているかを規定すること、つまり概念自身の体系を規定すればそれが真理であり、どのように一致に到達したかの過程を規定しなくても真理そのものを媒介的に規定することはできる。&lt;br /&gt;　こんな弁解が生ずるのは、存在と本質の一致が概念である、というヘーゲルの基本原理が間違っているからである。認識論の立場では、正しい認識に至る過程を規定するが、正しい認識そのものを規定することはできず、真理とは概念である、という結論になるだけである。だから、概念とは何かという規定は表れない。概念自身は規定されない。概念に至る過程が概念自身の過程である、というのなら、到達すべき概念は存在しない。しかも過程は概念に到達するまでの過程に過ぎない。&lt;br /&gt;　客観的世界の認識が真理である、と言うのは正しい。だから、客観的世界の内容を規定することが真理の実現である。ところが、客観的世界の法則＝普遍性には二種類ある。経験科学の個別普遍性と、論理学の対象である一般的な運動法則の規定である。だから、哲学的な真理は論理学の展開の全体であり、それは多様な存在の全体を運動法則として規定することである。その場合は、実体も必然性も認識の対象ではなくて、認識の内容であり、カテゴリーの一つである。哲学はある存在の実体や必然性を認識するのではない。必然性と偶然性というカテゴリーの相関関係の展開を認識することが哲学の課題である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-2178873016694163216?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/2178873016694163216/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=2178873016694163216' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2178873016694163216'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2178873016694163216'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/11/blog-post_21.html' title='第二部 本質論 第一五九節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8141917634274728141</id><published>2010-11-19T23:44:00.002+09:00</published><updated>2010-11-19T23:45:00.883+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一五八節</title><content type='html'>　第一五八節&lt;br /&gt;　本文はこれまでと同じ単純な図式である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　--しかし、これまでみてきたように、必然性の過程は次のようなものである。すなわち、それは最初に存在している硬い外面を克服して、その内面を啓示し、かくして互につなぎあわされているものが、実際互に無縁ではなく、一つの全体の諸モメントにすぎないこと、そしてこれらモメントの各々は、他と関係しながらも、自分自身のもとにとどまり、自分自身と合致するということを示すのである。これが必然性の自由への変容であって、この自由は単に抽象的否定の自由ではなく、具体的で肯定的な自由である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの必然性のカテゴリーは、論理の基本構造の単純さのために、個別存在の運動という意味をもっている。これは必然性についての経験的な理解である。カテゴリーの内容は、有の領域における、有と無の同一性、つまりすべての存在は非存在を含む、というのと同じである。&lt;br /&gt;　ヘーゲルのカテゴリーの単純な構造がどのようなものであるかを纏めておこう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　必然性を個別存在と対立する外的必然性と理解している場合、必然性は冷酷である、と言われる。ヘーゲルの必然性もこれと同じ外的必然性である。ヘーゲルはその外的必然性を内化する。必然性は最初の存在の内面が外に出てきて外面を克服していく過程である、外的必然性と見えるのは認識の間違いであって、本当は外的必然性に見えるものは内的必然性である、とヘーゲルは見方を変える。必然性のカテゴリー自体は独立的であり変化していない。&lt;br /&gt;　必然性は個と対立して個を滅亡させるのではない。個の内部にある真の個が殻を破って表に出てくるのが必然性の過程である。したがって、必然性と必然性によって否定される個別存在は、対立的な無縁の存在ではなくて、一つの過程の二つのモメントである。必然性と個別存在は一致しているのであり、必然性は個別存在に移行し、個別存在は必然性へと移行している。こうして両者ともに自己自身に止まっており、個は滅亡したのではなく新しく生まれ変わっている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　このあと突然自由が出てくるのもヘーゲルの論理構造の単純さを示している。自由は社会的な必然性における主観の規定である。主観は社会的必然性内部の固有の必然性である。本質の領域では必然性と偶然性の関係を規定する。概念の領域では、社会法則という特有の領域における必然性と偶然性の関係を規定する。しかし、ヘーゲルの論理では、必然性と偶然性の関係も、必然性と自由の関係も、実体と具体的存在＝主観の関係として同じ論理における対立物の統一である。ヘーゲルの論理では本質の領域と概念の領域の区別ができないために、本質の領域に自由のカテゴリーが導入される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．ここから、自由と必然とを相容れないものとみるのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる。有徳な人は、その行為の内容が必然的でありかつ即自対自的に妥当するものであることを意識しているが、しかもこのことは、かれの自由を少しも傷つけるものではなく、むしろそれによってはじめてこの意識は、まだ無内容で単に可能的な自由としての恣意とはちがった、現実的で内容のある自由となるのである。犯罪者が罰せられるとき、かれはこのかれに加えられる刑罰を自分の自由の制限と考えるかもしれない。しかしその実は、かれが従うこの刑罰は外的な強力ではなくて、かれ自身の行為の顕示にほかならない。そしてかれがこのことを認めるとき、かれは自由な人として振舞うのである。一般に、自分が全く絶対的理念に規定されているのだということを知るのが、人間の最高の自立性である。スピノザはこうした意識および態度を神への知的愛と呼んでいる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの論理では、必然性と個別存在の関係は対立と一致の二つである。実体＝必然性と個別存在の一致が真理である。個別存在が主観である場合には、必然性と主観が抽象的な対立から出発して具体的な一致に到達することがが自由である。自由とは、主観が概念の領域にまで高まって、自己の本質である実体＝概念との一致を自覚し、それに従うことである。だから、犯罪者は必然性である法に従うときに自由な人となる。法にもとづく刑罰は、犯罪者の実践が社会において実体＝必然性とどのような関係にあるかを明らかにしており、その必然性が犯罪者に対して自己を示したものであり、犯罪の内的な真理が表に出たものであるから、それに従うことが真の自由である、ということになる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　物自体と現象の分離を前提とする本質の領域の論理では、偶然性と必然性も自由と必然性もこのような関係にはない。必然性は独立的な存在的な内容を持つのではなく、偶然性と対立するカテゴリーである。必然性のカテゴリーの規定は、偶然性との関係によってのみ規定される。ヘーゲルの言う概念の自己運動としての必然性は、ある存在の特有の変化あるいは発展を意味している。リンゴはリンゴとして、馬は馬として変化する、という意味である。だから、必然性の内容は有の領域の運動一般の規定になっている。&lt;br /&gt;　この必然性が現実世界一般の実体的展開として捉えられる場合は、必然性は社会的な必然性として経験的に想定されて、必然性は主観の認識対象となり、認識が必然性と一致すると自由になる。しかし、実際は、主観は必然性内部を構成する一つの必然性であって、必然性と外的に関係するのではない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8141917634274728141?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8141917634274728141/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8141917634274728141' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8141917634274728141'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8141917634274728141'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/11/blog-post_19.html' title='第二部 本質論 第一五八節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-5117271504866080255</id><published>2010-11-18T20:48:00.001+09:00</published><updated>2010-11-18T20:49:24.199+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一五五節</title><content type='html'>　第一五五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は(イ)　即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々。同様に、他の側面を前提することとそれへ働きかけること、直接の本源性と交替によって措定されることとは、同一である。最初のものと考えられた原因は、その直接性によって受動的であり、措定されたものであり、結果である。したがって二つと言われた原因の区別は空虚であって、即自的にはただ一つの原因、すなわち、結果のうちで実体としての自己を揚棄するとともに、またこの働きのうちではじめて自己を独立化する原因が存在するにすぎない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの論理では、因果関係も交互作用も、実体と現実存在＝現象の関係であり、カテゴリーの内容は両者の同一性と対立の関係だけである。実体の外化が現実存在となる関係においては、実体が現実存在に移行し、それは現実存在が自己に環帰することであり、同一化である。この相関関係をさまざまな過程としてくり返して規定している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　この単純な相関関係をヘーゲル風に難しく表現すると、&lt;br /&gt;　自己を原因として他なる自己を形成していく自己運動においては、他者なるものは自己と同一である。同一的な他なる自己によって初めて実体は具体的な自己であるから、原因である実体は結果としての自己を媒介としてのみ自己自身である。結果としての自己が原因としての実体的な自己をつくりだす相関が交互作用である。実体は自己を否定して結果としての自己を創りだす原因としての自己であり、原因としての自己と結果としての自己は同じであると同時に、その両者を生み出す全体の過程が自己であり、この自己運動の全体が真の自己である。この全体的の運動の一部分を切り取ったものが因果関係である。それは具体的には交互作用の一方向の関係としての部分であり、この交互作用は、必然性の一部分である。&lt;br /&gt;　こんな図式はカテゴリーの構造を作り出さない。単純な関係を複雑に表現しているだけである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　実際の因果関係と交互作用はもっと単純である。&lt;br /&gt;　因果関係と交互作用は現象間の相関関係である。本質と現象の相関関係を含まない。二つの現象の一方向の関係が因果関係であり、両方向の関係が交互作用である。現象間の無限の相関関係の一部分である因果関係と交互作用は、全体的関連において無限の連続的相関となる。因果関係と交互作用は無限的な相関関係を、二つの現象の相互関係として抽出したものである。&lt;br /&gt;　現象間の相関関係は、実体との関係を内容としているのではなく、実体から分離した実体の具体的な運動形態の一つである。現象相互の関係を実体との関係において規定するのが必然性と偶然性のカテゴリーである。だから、交互作用の後に必然性と偶然性のカテゴリーが規定される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　第一五六節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、本文は言葉の遊びである。揚棄は無意味である。&lt;br /&gt;　補遺はこれまでのくり返しである。実例についてだけ補足しておくと、&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　スパルタの国民の風習と政体の交互作用は、スパルタの社会における現象の相互関係である。これ以外にも無数の交互作用がある。スパルタの社会の実体＝同一性は何かというのは、論理学の課題ではなく、経験科学である経済学の課題である。&lt;br /&gt;　自然界における無限の交互作用の特定の実体を規定するのは、その交互作用を対象的とする自然科学の課題である。論理学における因果関係と交互作用は、同一性＝本質の内部における現象間の相関関係である。論理学における実体とは、現象と対立する同一性である。実体＝同一性の内容は、同一性と対立するカテゴリーである現象との関係で作り出される諸カテゴリーの運動である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理学では概念は独立している。概念の内容は現実存在の相関である。「スパルタ国民の生活および歴史が示すその他のあらゆる側面が概念のうちに根拠を持つ」という規定は、ヘーゲルがスパルタの社会の規定において、因果関係と交互作用以上に進めないことを示している。ヘーゲルの論理学において概念はカテゴリーの終末であり、ゴミ溜めである。ヘーゲルはカテゴリーを規定できなくなると概念を持ち出してなんでも揚棄してそこに放り込む。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　第一五七節&lt;br /&gt;　概念への移行の説明だから、内容はない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-5117271504866080255?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/5117271504866080255/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=5117271504866080255' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/5117271504866080255'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/5117271504866080255'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/11/blog-post_18.html' title='第二部 本質論 第一五五節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-4097164924450727073</id><published>2010-11-15T22:17:00.001+09:00</published><updated>2010-11-15T22:18:12.048+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一五三節</title><content type='html'>　第一五三節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、実体あるいは神が現実を産出する、という関係が、ヘーゲルの基本的な論理構造である。この関係のもとでは実体が原因となって結果としての現実存在を生み出すことになる。したがって、ヘーゲルの論理においては、因果関係は実体的な関係である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　実体が現実を生み出す体系は存在の規定の体系である。しかし、論理学は存在の規定ではなく、存在の普遍としての運動の一般法則を規定する。この場合、実体と現象は対立的な相関関係において運動する。実体と現象には因果関係という相関関係はない。因果関係は現象間の相関関係である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。しかしこの同一性はまた形式規定でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される。しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即自かつ対自的には自己原因である。--ヤコービは媒介をあくまで一面的に考えたために、原因の絶対的真理である自己原因(自己結果・・も同じものである)を単に形式主義と考えた(「スピノザにかんする手紙」第二版、四一六ページ)。かれはまた、神は根拠と規定すべきものではなく、本質的に原因と規定されなければならないと述べているが、かれの意図したことがこれによって達成されないということは、原因の本性をもっと根本的に反省してみればわかったであろう。有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現在する水である。形式からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、実体＝原因が現実存在＝結果を生み出す、という論理構造においては原因と結果の相互関係はこのようになる。論理的な意義はないが、ヘーゲルの図式は次のようになる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの言う実体＝必然性＝原因が現実化するとき、結果である現実存在は実体の外化であるから実体の具体化である。実体とその外化としての形式的な違いがあるが、内容は同じであり、原因のなかにないものは結果にもない。ヘーゲルが言いたいのは、現実の存在は実体が現実化したもので、実体と現実は同一である、ということである。同一のものの形式が変化しただけだ、と言っている。ヘーゲルの同一性とは、実体と現象が同じである、という意味である。&lt;br /&gt;　実体＝神が現実を作り出す場合、神が原因で現実が結果である。現実は神の自己表出であるから現実は神でもあるから、神は自己原因である。原因である神と結果である現実は同じである。結果は原因なしには無であるというのは、現実は神＝実体なしには無であり、神＝実体は現実なしには無である、というのと同じである。ここには論理は何もない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理は実体と現象の同一性を基本構造にしている。だから、原因と結果も同一である。&lt;br /&gt;　しかし、本来実体＝同一性というカテゴリーの意味は、変化する現象に対立して変化しない、という意味である。実体と現象の一致という意味の同一性はヘーゲルの思弁哲学に特有の同一性であって、カテゴリーの内容としての意味はない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている--これは因果関係が捨象されているからにすぎない--からである。有限の領域においては、われわれは関連のある二つの形式規定の区別ということに立ちどまっているから、一度原因とされたものが、今度は措定されたもの、すなわち結果と規定されるようになる。するとこれはまた他の原因を持つことになり、かくしてここでもまた結果から原因への無限進行が生じる。同様に下降的な無限進行も生じる。なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、因果関係は実体を経由しない現象間の関係であり、有限な相関関係である。ヘーゲルが考えている実体と現象の関係には因果関係は存在しない。実体と現象は直接的な関係にはないからである。&lt;br /&gt;　現象の領域は無限の相関関係のうちにある。そのなかの現象と現象の二つの関係の一方向の関係が因果関係である。全体的な相関関係の中の一つの関係であるから、因果関係は原因の結果が原因となり別の結果との関係を持つ、という無限進行を含んでいる。無限の相関関係にある存在を二つだけ分離して一方向の関係として規定しており、無限の相関を分割する量的な関係を含んでいるからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　因果関係における同一性は、現象間の相関関係としてはヘーゲルの規定とは別の内容を持っている。&lt;br /&gt;　因果関係は現象間の直接的な関係であるから原因はすべて結果に移行する。結果のうちには原因のうちにないものは存在しない。現象間の関係には複数の因果関係が絡んでいるから、結果としてのすべての現象には複合的な原因が含まれている。原因をひとつと見て、複合的な結果の全体を結果と見ると結果の方がいつも大きい。然し、結果の中から原因との関連を抽出すれば、原因と結果が同じであることが分かる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　悟性は、実体性というものは容易に受け入れようとしないが、それに反して因果性、すなわち原因と結果との関係はよく知っている。或る内容を必然的なものとみようとする場合、悟性的な反省が努力するのは、主としてそれを因果関係に還元することである。もちろん、因果関係は、必然性に属してはいるが、しかしそれは必然性の過程における一側面にすぎず、必然性の過程は、因果性のうちに含まれている媒介を揚棄して、自分が全くの自己関係であることを示すものである。われわれが因果性そのものに立ちどまるならば、われわれは真の因果性ではなく、有限な因果性を持つにすぎない。この関係の有限性は、原因と結果とがあくまで区別されている点にある。ところが、この二つのものは、単に異っているだけでなく、また同一でもある。この同一性は普通の意識のうちにも見出される。われわれは、原因について、それが結果を持つかぎりにおいてのみ原因であると言い、結果については、それが原因を持つかぎりにおいてのみ結果であると言う。したがって原因と結果とは同一の内容であり、両者の相違はまず措定と被措定との相違にすぎない。しかもこの形式上の相違も同じくまた揚棄される。すなわち、原因は単に他のものの原因であるにとどまらず、また自分自身の原因であり、結果は単に他のものの結果であるにとどまらず、また自分自身の結果である。したがって事物の有限性がどこにあるかと言えば、それは、原因と結果は概念上同一であるのに、この二つの形態が分離されていることにある。すなわち、原因は結果であり、結果は原因であるが、しかし原因はそれが原因であると同じ関係において結果ではなく、結果はそれが結果であると同じ関係において原因ではないのである。このことは再び原因の果しない系列--これは同時に、結果の果しない系列でもある--という形をとる無限進行を出現させる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、悟性は実体を受け入れない。実体は規定できないとされているからである。カントは、規定できるのは経験の領域だけであり、現象と現象の関係だけであると考えている。物自体と現象が分離された上での現象間のもっとも高度の関係は因果関係である。現象と現象の関係は因果関係の系列と相互作用の関係以上には進まない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　必然性と偶然性というカテゴリーは、物自体と現象の分離における相関関係によってのみ規定できる。カントは物自体と現象の関係を規定できなかったために、必然性は因果必然性になり、必然性と偶然性の関係を規定することはできなかった。因果関係をその限界の内部で規定している。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは実体と現象の関係を因果関係としている。そのために、因果関係は必然性の一契機となり、因果関係が実体的関係に引き上げられているように見えるが、実際は必然性を因果関係のカテゴリーに引き下げており、必然性と偶然性のカテゴリーを規定できなくなっている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　第一五四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、因果関係は相互作用に移行する。原因と結果は別なものであるが、原因が結果を措定するのであり、結果を措定するからこそ原因であるから、原因と結果は相互に関係している。&lt;br /&gt;　因果関係は、原因から結果への、結果から原因への直線的な無限進行である。しかし、交互作用は自己完結的な関係に曲がり戻ることである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　この節には、こういう意味のことを書いている。屁理屈である。因果関係だけでなく、一般にカテゴリーが曲げ戻されて自己完結的な関係になることはない。相関関係は無限に発展する。この発展において常に同一性のうちにある。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-4097164924450727073?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/4097164924450727073/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=4097164924450727073' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/4097164924450727073'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/4097164924450727073'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/11/blog-post_15.html' title='第二部 本質論 第一五三節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-3708184782894860717</id><published>2010-11-09T22:28:00.002+09:00</published><updated>2010-11-09T22:28:43.754+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一五一節</title><content type='html'>　第一五一節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、本文は、実体性が絶対的な形式活動であり、必然性の力であって、現実存在＝偶有は、実体性の必然性の展開のモメントとなる、という同じ主張である。類が個を生み出す、果物が実体でリンゴがそのモメントである、という経験的な意識の論理化である。この関係を、果物がリンゴを生み出す、と言い換えても、リンゴは果物の一種である、と言うのと同じである。現実存在は実体性と一致する、というこの図式がヘーゲル哲学の基本的な弱点である。論理学は存在の規定を体系化する学問ではないからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　・・実体は理念の発展過程における一つの本質的な段階であるが、しかしそれは理念そのもの、絶対的理念ではなく、必然性というまだ限られた形式のうちにある理念である。もちろん、神は必然性であり、われわれはそれを絶対的な事物と言うこともできるが、しかしそれは同時に絶対の人格でもある。この点がスピノザの到達していない点であり、そしてこの点でスピノザの哲学は、キリスト教的意識の内容をなしている真の神の概念より劣っているのである。スピノザは血統からいってユダヤ人であった。すべて有限なものを一時的なもの、消滅するものとのみみるのは、一般に東洋的な見方であるが、これがかれの哲学において論理的表現を見出したのである。実体的同一という東洋的な見方は、あらゆる真の発展の基礎をなすものではあるが、しかしそこで立ちどまることはできないものである。それになお欠けているもの、それは個体性という西洋的な原理である。そしてこの原理は、スピノザ主義と時代を同じくして、最初にライプニッツのモナド論のうちに哲学的形態をとってあらわれた。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、実体はカテゴリーの一つであり、カテゴリーの発展において重要な意味を持っている。実体は必然性というカテゴリーの基礎となるカテゴリーであり、さらには本質の領域を規定する基礎的カテゴリーである。実体はカントの物自体においてもっとも具体的に規定されている。&lt;br /&gt;　実体は現象と対立するカテゴリーであり、実体と現象の関係が実体というカテゴリーの内容となる。実体は、この関係において基本的に三つの相関関係として規定されている。スピノザの実体は、現象＝存在の規定性は実体の属性である。実体は一つの無限者であり、その属性は無限の存在の規定性と同じである。スピノザは実体と現実存在を、実体とその属性として直接に同一と見ている。そのために汎神論と言われる。これに対して、カントの物自体は、存在の規定＝現象と分離された無限の同一性であり、カントの規定では「常住不変」である。「常住不変」の点ではスピノザと同じであるが、カントの特徴は実体＝物自体と、スピノザが実体の属性とした現象を分離したことである。これが実体と現象の第二の関係である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの第三の方法は両者を統一する。ヘーゲルの論理では、スピノザの実体とカントの物自体は、存在の規定あるいは現象から分離した、無規定な抽象物である点で限界がある。スピノザは現象を否定しており、カントは現象だけを認識できる、としている。スピノザとカントが、実体と現象の関係において、実体か現象のどちらかを否定することになるのは、実体が動かない無限者だからである。この点で両者の実体はキリスト教的意識より劣っている。&lt;br /&gt;　スピノザとカントの動かない無限者としての実体に対して、ヘーゲルの実体は自己運動する概念である。ヘーゲルの概念は運動する主体となる。ヘーゲルの実体＝概念は神と同じく、すべての存在の規定あるいは現象を生み出し支配する絶対的な力である。絶対的な力の内容とはすべての存在の規定あるいは現象である。ヘーゲルにおける実体と現象の一致のこの形式は、個を直接に肯定するモナドの原理をも取り入れる事ができる。実体が絶対的な自己運動する主体であると同時に、個別存在もモナドとして独立に存在する。実体と個別存在＝現象を独立させると同時に同一化する、あるいは両者の同一化によって両者がそれぞれ独立的であり、両者の同一性において実体は無限者である、ということになる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　このように実体が自ら運動する主体となって存在のすべてを覆い尽くすことになり、しかも現象は実体の外化の一契機である、と規定されると、現象＝個別存在は実体のモメント＝内容となり、実体と存在は統一され真の無限性が獲得されるように見える。&lt;br /&gt;　しかし、この論理構造では、実際には存在しない概念＝神が主体である。概念＝神が主体になる、というのは、実体が存在を作り出していく、という論理構造を意味している。この構造では、実体＝物自体と現実の個別存在＝現象は一致することになる。実体が外化によって存在と一致している、と言っているにすぎない。同一性としての実体＝物自体を現象に解消し、現象を物自体に解消していることにおいてやはり、いづれかを否定することにおいて統一されている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　実体は神ではないし、実体は存在を創造するものでもない。ヘーゲルの神を排除してもヘーゲルの実体が存在を自己の外化として生み出すという構造を変えなければヘーゲルの論理の逆立ちを足で立たせることはできない。ヘーゲルの論理の弱点は、実体というカテゴリーが存在を生み出す主体になることである。&lt;br /&gt;　実体は存在の規定を生み出す主体ではない。有限なものは一時的な存在であり消滅する。つまり有限なもの、現実存在は運動している。実体はこの変化における同一性である。あらゆる変化、運動、生成消滅は同一性としての実体との関係においてのみ生ずる。実体の「常住不変」という規定は運動の規定としてのカテゴリーである。&lt;br /&gt;　同一性＝実体は本質の領域の基礎的なカテゴリーとしての意義を持っている。しかし、実体＝物自体が「常住不変」であり一者であることに実体の限界がある。ここにスピノザとカントの限界がある。実体は「常住不変」であるという規定は正しいが、さらに「常住不変」のものとして運動のカテゴリーであり、また「常住不変」の実体として変化する、という規定に進むことが論理の発展である。実体＝物自体のカテゴリーは、「常住不変」の同一性として現象と対立しており、現象はこの同一性を否定する運動であり、この運動において実体は変化する。実体と現象の対立が運動の原理であるから、この対立が解消されることは運動の停止である。運動が停止することはなく運動だけが永遠であり、したがって、実体と現象の対立は無限に発展する。&lt;br /&gt;　実体＝物自体＝本質と現象は、現象が本質の内的運動である、という意味で一致している。しかし、本質の運動は無限に発展するのであり、両者の分離対立が解消されることはない。両者の分離対立の無限の発展が運動法則である。両者はまた分離対立の無限の発展において統一されている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．・・この哲学は確かに汎神論的であるが、それはむしろその無世界論のためにそうなのである。このような内容上の欠陥は、同時に形式上の欠陥ともなっている。スピノザはまず実体をその体系のはじめにおいて、それを思惟と拡がりとの統一と定義し、しかもかれがどうしてこうした区別に到達し、またどうしてこの区別を実体的統一に還元するにいたったかを証明してはいない。それにひき続く内容の展開は、いわゆる数学的方法によって行われており、したがって最初に定義と公理とが掲げられ、それに定理が続いている。そして定理の証明は、定理を上の証明されていない諸前提へ悟性的な仕方で還元することによってのみ行われている。スピノザ哲学の内容と結論を全く否定する人々さえ、その方法の厳密な整合性を賞めたたえているが、実際はスピノザの形式を無条件に承認するのは、その内容を無条件に否定するのに劣らず、いわれのないことである。スピノザ主義の内容上の欠陥は、形式が内容に内在しているものとして意識されていず、したがって形式が単に外的で主観的な形式として内容へ歩みよっている点にある。スピノザのように、あらかじめ弁証法的な媒介をせずいきなり実体を把握すれば、実体は普遍的な否定力として、あらゆる規定された内容を本来空無なものとして自己のうちへ呑みこみ、自己のうちからはなんら積極的な存在をも生み出さない、暗黒で形のない奈落のようなものとなってしまう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これは、ヘーゲルがスピノザを神の陣営に引き込もうとする努力であろう。ヘーゲルの論理は実体の理解において神と同じである。ヘーゲル哲学の基本的な課題は、実体と区別＝個別存在＝規定性を統一することである。ヘーゲルは両者の一致の観点からスピノザとカントを批判している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　実体が存在の規定を体系として生み出すための基礎であり主体である、とするのは実体を存在とすることであり、存在の規定性を一つの体系として記述する経験科学の方法を一般化したものである。スピノザは存在の規定の独立性を実体によって否定し、カントはさらにこれを徹底して、存在の規定と実体を切り離した。それは、実体と現象の統一という方法では世界全体を規定することはできないこと、つまり、実体の運動を捉えることができないことを理解していたからである。&lt;br /&gt;　実体の主体性によって存在の規定性の全体を生み出す方法はギリシャ時代からデカルトを経てヘーゲルまで継承されている方法である。ヘーゲルはこの体系に弁証法を取り入れたが、その結果、実体＝物自体の系統的な変化によって存在の規定性を作り出すことが弁証法的な論理の運動となった。こうなれば、存在の規定を生み出す実体を、単子と読んでも実体と呼んでも実存と呼んでも同じである。この場合に、実体が現実存在としての偶然性を内化するとするヘーゲルの客観主義に対して、主体、意志、実存等々がすべてを作り出す、とすると主観主義になる。ヘーゲル哲学はそうした構造を持っている。&lt;br /&gt;　スピノザもカントもこの構造を持たない。そのためにスピノザもカントも実体の運動を規定することができなかった。しかし、このスピノザとカントの実体の規定が弁証法の基礎であり、物自体と現象の分離が本質の領域のカテゴリーの運動の基礎である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　第一五二節〔実体関係から因果関係へ〕&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これはこれまでのくり返しで、第一五二節での実体と区別の関係の規定である。ヘーゲルの論理では実体が具体的存在を作り出す。だから、実体と具体的存在が直接的な関係にある。必然性より後に因果関係が出てくるのは、実体と現実存在が因果関係で結ばれていると考えるからである。ヘーゲルの必然性が非常に単純な因果必然性であり、結果を偶然性としていることがよく分かる。実体＝物自体と現象の相関関係は、両者の分離が運動形式であり、実体と現象＝具体的存在が直接的な一致に到達することはありえない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-3708184782894860717?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/3708184782894860717/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=3708184782894860717' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/3708184782894860717'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/3708184782894860717'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/11/blog-post_09.html' title='第二部 本質論 第一五一節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-7312455944283543820</id><published>2010-11-07T21:31:00.002+09:00</published><updated>2010-11-07T21:31:33.968+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四八節</title><content type='html'>　第一四八節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．　条件、事柄、活動という三つのモメントのうち、&lt;br /&gt;　a　条件は(イ)　あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたものとしては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するものとしては、それは独立的なもの--事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。(ロ)　諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。&lt;br /&gt;　b　事柄も同じく(イ)　あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。(ロ)　事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これはこれまでの繰り返しである。ヘーゲルの必然性と偶然性は非常に単純でこれ以上の発展的な規定を持つことができない。概念が事柄に代わり、偶然性が諸条件に変わっただけで、諸条件の受動性も事柄への適合も証明されておらず、前提して断定しているだけである。&lt;br /&gt;　この論理構造において、ヘーゲルの即自有というカテゴリーが重要な意味を持ってくる。即自有は内的な規定を予め持っており、それが現実化する、あるいは現実存在と一致すると想定されている。だから、概念が現実化するとは、現実存在は概念が外化したものであると解釈する、ということを意味しているだけである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．c　活動も(イ)　同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸条件および事柄のうちにその可能性を持っている。(ロ)　それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。&lt;br /&gt;　これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。--外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、概念の活動と人間の実践が同じ論理で現実と関係している。現実世界を、人間の実践と、諸条件としての現実存在と、概念に分けて、それが関連して一致している、と言っているだけの経験的な認識である。人間は牛を牛を太らすために草を切ってきて食べさせる。すべての労働過程は一般的にこうした過程である。人間の活動は、事柄を認識し、事柄と条件の関係を認識し、特定の事柄の実現のために諸条件を整える。人間は対象の個別の法則を認識して、それをうまく組み合わせて目的を実現する、という意味である。本質の領域の論理とは関係のない実例的な経験的な説明である。&lt;br /&gt;　労働過程は必然性と必然性を交差させることによって新しい必然性を作り出す過程である。論理学は労働過程を研究するのではなく、必然性と偶然性のカテゴリーとしての関係を規定することである。条件と事柄と活動のモメントによって必然性を規定することはできない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　第一四九節、第一五〇節&lt;br /&gt;　▽、これまでの規定をいっそうややこしく難しく表現しなおしただけである。&lt;br /&gt;　現実は必然的であるというヘーゲルの規定は、現実の結果を必然だと言っているだけであって、必然性というカテゴリーの規定ではない。ヘーゲルは現実存在としての結果を必然性と言って、消えたものを偶然性、非現実性という。&lt;br /&gt;　すでにもっとも複雑な運動を形成している現実世界は、自然の領域は本質の領域のカテゴリーによって規定され、社会法則の領域は概念の領域のカテゴリーで規定される。本質の領域のもっとも高度の運動は偶然性と必然性の相関によって規定される。どの現実が必然性でどの現実が偶然であるといった区別は存在しない。すべての存在を相関関係の規定においては、すべての存在は必然性でもあり偶然性でもあり、絶えず転化している。ヘーゲルはその相関関係を規定していない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-7312455944283543820?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/7312455944283543820/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=7312455944283543820' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/7312455944283543820'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/7312455944283543820'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/11/blog-post_07.html' title='第二部 本質論 第一四八節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-3565557174949315138</id><published>2010-11-05T02:23:00.001+09:00</published><updated>2010-11-05T02:24:02.529+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四七節</title><content type='html'>　第一四七節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．(ハ)　現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ここも前節と同じで、本質と現象の認識論的統一という論理構造である。現実を概念と現実存在に分離した上で、再び概念と現実存在の統一を自己運動として規定すると同語反覆になる。そのために記述の方法が非常にややこしくなる。その面倒な過程はできるだけ単純にしてヘーゲルの論理構造を示しておくことにする。これはヘーゲルの特殊な構造であって論理的構造ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理構造では、現実存在はまずばらばらの変化する個別存在である。その現実存在をより深く認識すると、本質＝概念の現実化であることがわかる。概念は現実化されるまでは可能性にすぎない。概念が現実化すると、現実存在と概念が一致して、現実存在は概念と存在の二つの規定からなる円になる。両者の関係は円環をなしているから、外的なものの内化であるとも言えるし、内的なものの外化であるとも言える。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　「あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。」とは同語反覆である。あらゆる条件とは現実的になるに十分な条件だからである。結果の現実からそれが十分であったことがわかる。すべての現実存在は、あらゆる条件が揃っているから現実存在となっている、と言うことができる。事柄と条件が整うと必然性になるというのは、現実＝結果を事柄と条件の統一として、そして必然性として認識すると言う意味になる。内的なものと外的なものが合一すると必然性であると言っても同じである。すべての存在は内的なものと外的なものの合一であるから。&lt;br /&gt;　経験的な意識においても変化の中に統一性があることはわかる。羊は草を食べて生きる。たくさん草があれば太って生きるし、草が少なければ痩せて生きる。しかし、どのように変化しても羊である。草は羊に食われて羊化する。羊が育つ場合に、痩せて育てば痩せて育つ必然性があり、太って育てば太って育つ必然性があった。したがって、羊がどのように育っても育たなくてもそれが羊の必然性である。狼に食われるのも条件があったからであるからそれも羊の必然性である。ヘーゲルはこうしたことをややこしく言い換えている。一般的に言えば、あらゆる経験科学が現実の中に必然性を発見している、ということを論理形式で記述しているだけである。&lt;br /&gt;　論理学は存在のすべてを客観的な一般的な運動法則として規定する学問であるから、論理学にとって所与の現実は存在しない。ヘーゲルは対象の存在を前提として、対象に偶然性と必然性のカテゴリーを適用している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遣　或ることが必然だと言われるとき、われわれはまず最初に、なぜそうなのかと問う。これによってわれわれは必然性が措定されたもの、媒介されたものとして示されることを要求するのである。しかしわれわれが単なる媒介に立ちどまるならば、それはまだ本当の意味における必然性ではない。単に媒介されたものは、自分自身によってそれが現にあるところのものであるのではなく、他のものにそうなのであるから、やはり偶然的なものにすぎない。われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとしてあるということであり、したがって媒介されているとはいえ、同時に媒介を揚棄されたものとして自己のうちに含むということである。したがってわれわれは必然的なものについて、「それはある」と言う。すなわち、われわれは必然性を、他のものによって制約されない自己関係と考えているのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、本質の領域では、すべてのカテゴリーは相関関係の規定であり、媒介の規定である。だから媒介は必然性の特徴ではない。必然性は媒介されているだけでなく、「自分自身によってそれが現にあるところのものとしてある」、つまり媒介的でありながら自己自身としての統一性を持っている。しかし、これもまた本質の領域の一般的な特徴である。すべての相関関係は本質の領域＝同一性の内部における相関であるから、すべての相関関係は媒介的でありながら自己自身として統一性をもっている。それは必然性だけの特徴ではない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの必然性の規定は、概念を必然性として前提しているために非常に単純でそれ自身の変化がない。自己関係、自己同一性というのは、概念は現実との関係にあっても、どのように展開しても概念であり続けるという意味にすぎない。変化において変化しないもの、というのは、ヘーゲルが空虚な抽象物として批判した物自体と同じである。ただ、ヘーゲルはカントと違って、変化しないもの＝物自体が現実存在を作り出すとして現実存在と同一化した。これがヘーゲルの論理の単純化の基礎である。概念の変化と現象の変化、あるいは本質の変化と現象の変化が同じであれば、物自体と現象の分離は必要ない。両者が違った運動をするところに本質の領域の特徴がある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　現実存在を条件として媒介しているが、自分自身の展開として現実化しているために媒介を揚棄して自己のうちに含んでいる、というのは、必然性とは「他のものによって制約されない自己関係」であるという意味で、羊は様々の草を食べて特有に変化しても羊である、という意味である。ヘーゲルはこの単純な論理をさまざまに言い換えているだけである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　偶然を貫いて必然性があるのなら必然性と偶然性は分離されている。必然性が偶然性を自己化するという意味でだけ偶然性は必然性に転化する。本質の領域における必然性と偶然性はこれほど単純な関係にはない。必然性と必然性の交差である偶然性は新たな必然性を形成するか、あるいは交差している必然性の内容に転化する。ある必然性は偶然性として他の必然性の内容に転化する。一般的な規定としては、必然性と必然性の相関関係は新たな必然性の形成過程である。ヘーゲルはこの構造を理解しておらず、必然性と偶然性の単純な二重構造を想定している。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは、概念が同一性であり所与の現実が偶然性であり現象である、というカントの物自体と現象の関係をそのまま受け継いで、この分離においてカテゴリーを展開するのではなく、両者を同一化することでカテゴリーを体系化している。&lt;br /&gt;　物自体＝必然性と現象＝偶然性が関係するのではない。物自体と現象の相関関係が発展すると必然性と偶然性の相関を作り出す。本質と現象の分離が基礎になって、その分離の運動形態として必然性と偶然性のカテゴリーが生み出され、分離は発展する。両者の分離の発展が両者の一致の過程であるが、ヘーゲルはこの分離の発展の過程が存在しない。本質を必然性とし、現象を偶然性として、その同一性を規定するのがヘーゲルの論理の単純化である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．--必然は盲目であるとよく言われている。そして、必然の過程のうちにはまだ目的が顕在していないかぎり、それは正しい。必然の過程は、相互に全く無関係でなんら内的な連関をもたないようにみえる個々別々の諸事情の存在からはじまる。これらの事情は、直接的な現実であり、それは自己のうちで崩壊し、この否定から一つの新しい内容が出現する。ここでは一つの内容が形式上二重になっているのであって、その一つは問題になっている事柄の内容であり、もう一つは、肯定的なもののようにみえ、また最初は実際そうした性格を持っている個々の事情の内容である。後者の内容は、それ自身無常なものであるから、その否定へ転化され、かくして事柄の内容となる。直接的な諸事情は、諸条件としては亡び去るが、しかし同時にまた事柄の内容として保存されるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、偶然性の背後に必然が存在する、必然性が偶然性を自己化する、という論理においては、その必然性が認識されているかどうかが問題になる。必然性がどのように見えるかは、必然性というカテゴリーの規定とは関係がないが、必然性のカテゴリーが規定されていない段階では、まだ規定されていない必然性をある固定的なものと想定して、それが認識される場合とされない場合、といった必然性のカテゴリーにとっての外的な問題が研究される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　こうした問題は必然性の規定とは関係がない。しかし、ヘーゲル哲学の図式では次のようになる。&lt;br /&gt;　認識論的な論理構造では、ばらばらの直接的な現実存在を前提して、実体＝概念＝本質＝必然性がそれを否定して自己化することで自己を実現する関係になる。経験的な意識にとっても、個別存在が変化して崩壊する過程で常に新しい現実が生まれていることは理解できる。ヘーゲルはこの新しい現実を必然性としているだけである。二重になっている、というのは、必然性があり、偶然としての現実存在があり、この二つが必然性の外化において一致している、という意味である。個々の現実存在は変化し崩壊するが、概念の必然的展開の契機となることによって事柄と一致し、事柄の内容として保存されている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理の内容は経験的な意識を一般化しただけである。ヘーゲルの思弁的図式に捉えられると、経験的な意識の単純な構造から抜け出すことができず、すべてのカテゴリーの規定について同じことをくり返すことになる。この同じ論理を人間の活動に適用すると、人間の活動は目的意識を持つから、偶然性の背後に隠れている必然性の内容が目的として顕現していることになる。人間の活動は目的意識のもとに条件を自己化し手段とする。バラバラの個別存在は個別的に崩壊しているように見えるが、それはある目的の契機、手段として自己を消耗するのであって、それが必然性の過程である。このことが認識されれば、あるいは最初から目的として顕現していれば、その場合は必然性は盲目ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　以上のヘーゲルの規定は、現実の存在は経験的な意識にはばらばらに生成消滅しているだけに見えるが、正しく認識すれば、ばらばらに生成消滅しているかに見える現実の背後に必然性が隠れていて、その必然性がそのバラバラの存在を自己化し、自己を実現する過程である、という意味である。これは、個別必然性の発見を課題とする経験科学の課題を一般化して論理形式にしたものである。これは近代になって自然科学が発展した成果を取り入れた近代哲学の基本構造である。ヘーゲルは論理学の課題を経験科学と同じ課題をより一般化したものとしている。しかし、本来は論理学の基本的な課題は、この構造から抜け出すことである。&lt;br /&gt;　必然性をこのように内的な即自体と見る場合には、必然性の形式の一つの想定として目的論が生れる。目的は必然性の結末をあらかじめ規定していると考えられているから、必然性というカテゴリーの有力な規定と見なされてきた。論理の要点は必然性がある確定された内容として想定していることであり、その上で、必然性の確定されている結果を人間が目的として意識して顕在させている、ということである。このとき、目的意識が、偶然の諸要素、諸条件を、主観あるいは概念が自己内化するという、自己内化の論理が使われる。これもまた必然性を固定的に想定することから生まれる規定である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．人々は、かくかくの事情および条件から全く別の或るものが生じたと言い、このような必然性の過程を盲目と呼ぶ。これに反して、目的はあらかじめ意識されている内容であるから、目的活動は盲目ではなくて予見的である。われわれが世界は摂理によって支配されていると言う場合、この言葉のうちには、目的はあらかじめ即自かつ対自的に規定されたものとして働くものであり、したがってその結果はあらかじめ知られ欲しられていたものと一致する、ということが含まれている。世界が必然によって規定されているという考え方と、神の摂理の信仰とは、けっして相容れがたいものではない。神の摂理ということの根抵に横たわっている思想は、後に示されるように概念である。概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を揚棄されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である。必然性は、概念的に把握されないかぎりにおいてのみ、盲目なのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、必然性が盲目である、というのは偶然性の背後に存在する必然性を認識できないという意味にすぎない。だから、必然性は認識されないかぎりにおいて盲目である。合目的的活動の場合は、後に現れ出るべき内容が意識され、表出されている。世界は必然によって規定されている。世界の必然性を人間は認識できなくても、神は目的をあらかじめ知っている。神の摂理、概念は現実の背後に横たわっており、現実を手段として必然性を実現している。神の目的意識は世界の必然性である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　必然性というカテゴリーをあらかじめ規定された内容を持つ発展形式だと考える場合は、必然性や目的意識についてのこうした議論が生ずる。偶然性の背後に必然性が隠されているのなら、表に出てきたときに必然性であったことが理解される。だから、認識されない限りにおいて、認識されるまでは、必然性は盲目である。経験科学にとっては、研究の対象の必然性を明らかにすることが課題である。対象の必然性を認識できれば対象は偶然的な存在ではなく、合目的的な発展形式を持つ統一体であることがわかる。こんなことは論理学では問題にならない。論理学はある対象の必然性を問題にするのではなく、必然性とは何かを規定することを課題にしているからである。偶然的に見える現実の中に必然性を発見すること、偶然性の背後に必然性が存在することを指摘することは論理学の課題ではない。必然性あるいは偶然性というカテゴリーがどのように形成されているかを規定することが論理学の課題である。&lt;br /&gt;　実際は必然性は一つの運動形式である。論理学では偶然性と必然性の相関において運動法則の一段階を規定する。必然性のカテゴリーは確定された、予め予見できる内容を意味するわけではない。必然性も偶然性も、有や無や量と同じように運動体としてのカテゴリーの一つである。予め規定された発展形式を必然性というのではなく、必然性自体が運動するカテゴリーである。必然性の運動とは偶然性に転化し、また偶然性が必然性に転化することである。この偶然性と必然性の関係が必然性と偶然性のカテゴリー内容の規定である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルが指摘している、必然性による偶然性の自己化という相関関係は、必然性と偶然性の一つの転化形態にすぎないし、また必然性と偶然性の全体的な関係において規定しているわけではない。必然性と偶然性は厳密にはこのような相関関係にあるのではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．--必然という見地は、われわれの心情および態度にかんして、非常に重要な意義を持っている。われわれが出来事を必然とみるとき、このことは一見全く不自由な関係のようにみえる。古代の人々は、周知のように、必然を運命と考えていたが、近代の立場はこれに反して慰めの立場である。慰めとは一般に、われわれが自分の目的や利益を断念するとき、その代償がえられるだろうという見込をもってそうすることである。運命は、これに反して、慰めのないものである。しかし運命にかんする古代人の感情を立ち入って考えてみると、それはけっして不自由の感情でなく、自由の感情であったことがわかる。なぜかと言えば、一般に不自由とは、反対のものへの執着にもとづくものであって、われわれが現に存在し生起するものを、存在し生起すべきものに反するとみることからくるからである。古代人は、これに反して、次のように考える。すなわち、しかじかのことがあるから、そうあるのであり、またそれはそうあるとおりにあるべきものである、と。したがってそこにはなんらの対立もなく、したがってまたなんらの不自由も苦痛も悩みもない。運命にたいするこのような態度は、前に述べたように、たしかに慰めのないものではあるが、しかしまたこうした心情は慰めを必要としないものである。なぜなら、ここではまだ主観性が無限の意義を獲得していないからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは、現実世界に固定的な必然性が存在することを前提として、その必然性に対する心情のあり方を問題にしている。必然性が存在するかどうかだとか、必然性に対して人はどのような心情を持つかといった問題は、論理学の課題ではない。必然性というカテゴリーの内容を規定できない場合に、必然性は認識されない限りにおいて盲目であるとか、目的意識は必然性が顕現したものであるとか、必然性は運命かどうか、といった問題が、必然性というカテゴリーの仮説として生まれる。必然性に対する心情および態度は必然性のカテゴリーの内容とは関係がないが、こうした必然性についての仮説を克服するために簡単に触れておこう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　現実の結果を必然性として肯定し受け入れることが、古代人の運命という感情である。古代人には共同体社会と対立する個人の感情が生まれていなかった。だから、個の感情と運命が対立しても、そこに不自由の感情としての苦痛や悩みはない。運命あるいは共同体による個の拘束という意識が生まれていない。この感情は共同体社会と対立するほどに個の無限性が成立していない、という制限の内部ではあるが、個の意識と社会的必然性が一致しているという意味では自由である。古代人にあっては、運命が人間的な自由の意識のあり方である。&lt;br /&gt;　古代人の意識は必然性を受け入れており、必然性と個の意識が一致している。古代人は現実の必然性を認識していないが、現実の結果を運命として受け入れている。人間は運命をどうすることもできない、現実はなるようになるのであり、なるようになっているのであり、なるようになったのである、というのが古代人の世界観である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルが問題にするのは常に現実世界の必然性と個の意識の対立と一致である。ヘーゲルにとっての個の無限性＝自由は、必然性と個の意識の一致である。個は独立的な無限的な意識において必然性と一致する。個が無限の意識をもつのは個が概念を持つに至ることであり、それは必然性と一致する意識を持つ段階に到達したことである。個はこの高度の意識において、自己内の必然性との一致において、個別の目的や利益を断念する。&lt;br /&gt;　慰めの立場とは自己内の必然性の意識において自分の目的や利益を断念することが、自分の真の目的や利益にかなうことでもある、と意識することである。個別目的や利益を失った場合に、必然性が生み出す新たな目的や利益の契機になるだろう、と意識することで必然性と和解することが慰めの立場である。自己内に概念が形成されているから、個別的な目的や利益を断念することは自己内の必然性と一致することだからである。これが近代の立場の感情である。&lt;br /&gt;　こうした心情は必然性を抽象的に固定的に想定している場合に生まれる心情である。こうした心情を超えるための客観的な条件は、必然性という運動形態が発展して、客観的にに自由というカテゴリーを生み出すほど複雑になることである。その上で、必然性というカテゴリーを具体的に規定することがこうした心情の形式による必然性の理解を克服する主観的な条件である。必然性についてのこのような単純な理解に止まると、運命についての無用な詮索に煩わされることになる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．しかし主観性とは、事柄に対立している悪しき有限な主観性にすぎないものではなく、その真の姿においては、事柄に内在しているものであり、こうした無限の主体性は、事柄そのものの真理である。このように理解するとき、慰めの立場は全く別のより高い意味を持つようになる。そしてキリスト教が慰めの宗教であり、しかも絶対の慰めの宗教であるとみられるのは、こうした意味においてである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの必然性と主観性の関係は単純である。羊が草を食べると草は羊と同一化する、というのと同じである。主観の真の姿は概念と一致した、概念の展開の契機となる、概念の内在的な内容としての主観である。概念と一致する主観は無限で自由な主観で、対立する主観は有限な主観である。主観が必然性と対立すると慰めのない有限な感情に支配される。主観が神の必然性と一致すると、神と一体となり神による慰めを得られる、という話である。&lt;br /&gt;　現実の必然性と主観はこんな関係ではない。悪しき主観が善き主観より歴史の必然の大きな契機となる場合もある。ヘーゲルは必然性を神の摂理と同じ固定的な抽象的な内容と見ているために、心情の理解においてもこうした宗教的な単純化をあちこちでやっている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■、ここでふれた点の詳説は宗教哲学に譲らなければならないが、なおここで次のことを注意しておこう。それは、人が自分の身におこることを、「運は自分の作るもの」という古い諺の精神において理解することが非常に大切だということである。この諺の意味は、人間は一般に自分自身をのみ享受せざるをえないということである。これと反対の見方は、自分の身にふりかかることを、他人やめぐまれぬ事情やのせいにするような見方である。これは再び不自由の立場であり、不満のもとである。これに反して、自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起っても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。自分にたいしても運命にたいしても不満を持ちながら生きている人は、まさに自分が他人によって不当な取扱をうけているのだという誤った考えのために、多くの間違ったことをしでかすものである。もちろん、われわれの身にふりかかることのうちには、多くの偶然もある。しかしこの偶然は、人間の自然性に根ざしているのである。人間が自分の自由を意識していれば、かれの身にふりかかる不幸もかれの魂の調和、かれの心の平和をかきみだすことはない。それゆえに、必然にかんする見方こそ、人間の満足と不満足を決定するものであり、したがって人間の運命そのものをも決定するものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、「人間は一般に自分自身をのみ享受せざるをえない」というのは現実との関係における精神のあり方として重要な規定である。この経験的な規定は、ヘーゲルの固定的な必然性の規定に比べると、ヘーゲルはそれを論理として規定しているわけではないが、より深い内容を持っている。必然性は常に新しく形成されているものであり、予見された、予め決められた内容を持つのではない。社会的必然性は個人の実践が必然性を形成するのであり、個人の運命はその自らが契機となって作り出した必然性と関わる。これが個と社会的な必然性の関係である。&lt;br /&gt;　したがって、必然性のより大きな契機となる実践は、自己自身を享受する実践である。自分自身が契機となって作り出した運命に自分が巻き込まれるからである。あらゆる不幸や罪をも自己自身のものとして、自己自身が契機となって作り出した運命として享受することが偉大な個性である。実践的に言えば、そのような必然性を作り出すことが偉大な個性である。そのような偉大な個性はその必然性を自己として受け入れる精神を持っている。不幸もなく罪もなく、しごく平和に、罪といえばせいぜい善意による相手の間違いであり、不幸と言えば他人による被害で、自分自身は自己に対しても他に対してもあくまで善良で平穏で、自己自身の責任においてはどんな罪も不幸もない、というのが立派な自由な善良な人生であるというのが日本人的な人生観、世界観である。こういうものは自分の運命についての単なる無知であり、無為であり、無能であり、それを肯定する意識にすぎない。&lt;br /&gt;　自己自身をのみ享受する、という現実感覚は日本では理解されない。文学史上においては、やっと漱石が自分自身の運命を作り出し、罪と不幸を作り出しそれを自分の責任として受け入れる内容を作り出しているだけである。鴎外は、自己自身を享受できない精神の典型であり、それが文豪といわれるゆえんである。実際は、鴎外はなんの罪もなく悪いのは他人だけという形式をとった俗物である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-3565557174949315138?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/3565557174949315138/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=3565557174949315138' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/3565557174949315138'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/3565557174949315138'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/11/blog-post.html' title='第二部 本質論 第一四七節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8978941802489072096</id><published>2010-10-30T16:49:00.003+09:00</published><updated>2010-10-30T16:50:02.945+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四六節</title><content type='html'>　第一四六節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、直接的な現実存在は偶然的に変化しているように見える。しかし、その変化は他の物が現実化するための条件としての変化である、ということである。書き方はややこしいが、内容はごく単純な経験的な現実認識である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは内的と外的の単純な対立を使って、現実存在は偶然性であり、可能性であり、条件である、と様々に規定している。現実存在自身は変化していない。ヘーゲルは現実存在の客観的な運動を規定しているのではなく、現実存在についての認識の変化を規定している。現実存在自身はばらばらの偶然的に運動する存在であるが、実はそこに概念が存在することを認識することができる。その概念との関係から見ると、偶然的に見える存在は条件となっている、条件と見ることができる、という意味である。現実存在は偶然的な存在に見えるが、本当は概念の実現体である、と解釈しても意味はない。具体的な法則を認識する経験科学と違って、こうした現実の一般的な解釈は積極的な意味を持たない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。--直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、条件とは現実的な可能性である。条件とは他のものの実現に役に立つ現実存在である。概念が外化し現実化する過程で現実存在は実現の手段となり消耗される。概念が自己を実現するためには、自己の前にある現実的所与を条件としなければならない。&lt;br /&gt;　山羊の子供が生まれると水を飲んで草を食べて生きていく。水と草は山羊が生きるための条件である。水と草は山羊によって消耗されて山羊の一部になる。水と草は山羊の体になることができる条件を備えており、その内的な可能性を山羊の体になることにおいて実現している。ヘーゲルはこの程度の誰でも知っている過程を思弁的に記述している。このような実例は論理にならない。水と草は山羊に対する条件として偶然的に存在するのではなく、それぞれが必然的な存在である。だから、水も草も必然性として規定した上で山羊の必然性との関係を規定しなければならない。それが必然性と偶然性の相関である。&lt;br /&gt;　偶然性が手段であるというヘーゲルの規定はおよそ論理と言えるものではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。--現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、こんどは現実存在の内的な側面である。現実存在は直接的に見ると偶然的に変化するだけの有限的存在に見える。しかし、現実存在は自己内反省＝本質の契機として変化する。現実存在の変化とは、内面性が現実存在の偶然的な外面性を揚棄して現実となることである。この変化は自己の内面＝本質が定立されたにすぎないから、別のものが生じたのではなく、自己自身が外化したものである。だから、条件は変化のうちで、自己の本質と合一する。現実性の過程は偶然的な変化ではなく、本質の現実的定立としての、自己自身への回帰としての、概念自身の定立としての変化である。&lt;br /&gt;　草は山羊に食われて山羊になる運命にある。石は山羊にならない。草は自己自身において山羊になる条件であり、山羊は草の自己である。草は直接的存在である自己を揚棄して山羊になる。こんな単純な経験的な事実を思弁的に記述しても論理にはならない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは偶然性が支配しているかに見える現実世界には、秩序があり法則があり統一性がある、として、それが概念であり必然性である、と断定している。経験科学はすべてこの前提のもとに成立しており、偶然とも見える諸現象の交差のうちに法則を見出している。それは哲学がわざわざ確認するまでもない経験的な事実である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8978941802489072096?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8978941802489072096/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8978941802489072096' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8978941802489072096'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8978941802489072096'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_30.html' title='第二部 本質論 第一四六節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-1867226581631563643</id><published>2010-10-25T17:14:00.001+09:00</published><updated>2010-10-25T17:15:21.612+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四五節</title><content type='html'>　第一四五節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの論理の基本構造は、概念と現実存在を分離して、その一致の過程を規定することである。概念は外化し現実存在になる可能性をもっており、現実存在は概念と一致する可能性を持っている。ヘーゲルはこの分離と一致の関係だけをカテゴリーの内容として規定しており、直接的な一致と媒介的な一致だとか内的な一致と外的な一致だとかいった同じ関係をくり返し使っている。&lt;br /&gt;　必然性と偶然性の関係においては、ヘーゲルは経験論的に現実存在を前提して偶然性とした上でその背後に必然性を想定している。だからまず偶然性を規定している。しかし、実際は偶然性は必然性の交差であるから、偶然性は必然性の後に規定されるべきである。ヘーゲルの認識論的な方法では偶然性と必然性の関係をしたがってこのカテゴリーの内容を規定することはできない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　偶然性と必然性のカテゴリーの内容は認識論的な論理構造では規定できないし、カテゴリーの順番も間違っているので、ヘーゲル批判の形式で偶然性と必然性の関係を規定することはできない。だから、ヘーゲルの論理はまったく採用できないが、ヘーゲルの規定を簡単に紹介しておこう。ヘーゲルの考え方は深く浸透しているので、その構造を簡単にして理解しておく必要がある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　可能性は、現実性の単なる内面にすぎないから、まさにそれゆえにまた単に外的な現実性、すなわち偶然性である。偶然的なものとは一般に、その存在の根拠を自分自身のうちにでなく、他のもののうちに持つものである。現実性が最初意識にあらわれるのは、このような姿においてであり、人々はしばしばそうした姿を現実性そのものと混同する。しかし偶然的なものは、他者への反省という一面的な形式のうちにある現実性、あるいは単に可能なものという意味における現実的なものにすぎない。したがってわれわれは偶然的なものを、存在することもできれば、存在しないこともでき、或る形で存在することもできれば、他の形で存在することもできるもの、そしてそれが存在するか、存在しないか、およびそれが或る形で存在するか、あるいは他の形で存在するかということの根拠を、自分自身のうちにではなく、他のもののうちに持っているもの、と考える。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、現実の具体的存在は、「存在することもできれば、存在しないこともでき、或る形で存在することもできれば、他の形で存在することもできるもの」という偶然的な存在である、とヘーゲルは考えている。論理学とはまるで縁のない経験的な現実認識である。ヘーゲルはまずばらばらの現実存在を前提として、他方で概念を即自体としての存在として前提している。この現実存在の偶然的な相互関係を否定して、現実存在を概念の外化として、概念的に認識することが、概念と現実存在の統一である。&lt;br /&gt;　これは認識論的に言えば、偶然的な関係において存在する現実存在の背後に必然性を認識することである。偶然的な関係のうちに必然性を見出すのは経験科学の課題である。哲学の課題ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　このあとヘーゲルは偶然性のテゴリーの規定から外れて実例に移行している。現実の多様性を偶然性と見て、その偶然性に驚嘆するのは愚かである。この多様な偶然性の世界に調和と法則性を洞察しなければならない、としている。ごくわかりやすい経験的な教訓である。偶然性の中に必然性が埋もれていると考えるのは偶然性と必然性を分離する認識論の立場の相関関係である。この相関によっては偶然性と必然性のカテゴリーの内容を規定することはできない。このあともずっと、経験的な実例を雄弁に解説している。しかし、実例はカテゴリーの内容の規定ではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．--次に特に重要なのは、意志にかんする偶然性を正当に評価することである。人々はしばしば意志の自由という言葉を単なる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志と解している。確かに恣意は、さまざまの決定をする能力であるから、その概念上自由なものである意志の本質的モメントではあるが、しかしそれはけっして自由そのものではなく、形式的な自由にすぎない。恣意を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる本当に自由な意志は、その内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識していると同時に、それが自分自身の内容であることをも知っている。これに反して、恣意の段階に立ちどまっている意志は、内容からすれば真実で正しいものを選ぶ場合でさえ、気が向いたらまた他のものを選んだかも知れないという軽薄さを持っている。よく考えてみると、恣意というものは一つの矛盾である。なぜなら、そこでは形式と内容とが対立しているからである。恣意の内容は与えられたものであって、恣意はそれが意志自身にではなく、外部の事情にもとづいていることを知っている。したがってこのような与えられた内容にかんする自由とは、選択の形式にあるにすぎない。そしてこうした形式的な自由は、単に主観的な自由である。というのは、こうした場合意志が或るものを選んで他のものを選ばないということは、結局、意志が目前に見出した内容がもとづいている外部の事情に帰されなければならないからである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、意志の自由と恣意を区別しなければならない。自由とは抽象的には意志を自己自身で決定することである。恣意はこの点では自由に属する。しかし、恣意においては意志の内容が自己自身において規定されていない。だから恣意は自己決定という形式規定であり形式的な自由である。&lt;br /&gt;　本当の意志の自由は、自己の意志を自己において決定するだけでなく、意志の内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識している。さらに、それが自分自身の内容であることをも知っている。恣意の内容が真実であることもあるが、それは偶然であって内容を意識しているわけではない。意志の内容が真実で絶対的であることを意識していることが真の自由である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの真の自由は絶対的精神を前提としている。ヘーゲルは絶対的精神を意識することができる場合を真の自由だと考えている。しかし、絶対的精神は存在しないからこれは自由の規定にならない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　しかし、恣意に対する批判は内容を含んでいる。&lt;br /&gt;　恣意は形式的には自己決定であるが、内容は被規定的である。自己決定のみを原理とする恣意は概念の意識を内容にしておらず、恣意の内容は外部において与えられている。恣意の内容は外部から与えられるから、意志の自由は与えられた内容の選択の自由になる。自由は外部的な偶然的な内容の選択に限定されており、しかも意志の決定は外部の事情である選択の内容によって決定されている。だから、これは主観的な形式的な自由である。&lt;br /&gt;　真の自由における自己決定は、自分で選択するという意味ではなく、概念の内容を自己内からくみ取って、自己の意志として現実化する、という意味である。意志が形式的に自己を決定するだけでなく、客観的な、概念的な内容を自己の内容とするときに自由である。その場合意志の内容は現実的である。&lt;br /&gt;　恣意の内容が概念的な内容と一致していても自由ではなく恣意である。恣意は他の意志を持つ可能性もあったと思い込んでいて、可能性において自由に選択したと考えているが、この選択の自由は選択の偶然性である。他の選択の可能性こそが恣意の特徴であり、自惚れであり、自由の形式性、有限性である。自由は自己自身である概念の自覚による自己の規定であり、事情によって選択するのではなく、また与えられた内容を選択するのでもない。自己自身の外化であって選択ではない。選択の自由は選択ということ自体が被規定的であり、自由を問題にすることにはならない、ということが重要である。&lt;br /&gt;　真の自由は意志の内容を自己内から作り出すという場合、この意志の内容は何かが問題になる。ヘーゲルの論理ではそれは概念である、ということができるが、絶対精神は存在しない。だから、自由はこのような方法では規定できない。ヘーゲルの論理ではまず、必然性と偶然性のカテゴリーが単純化されていて結局内容が規定されていない。自由は必然性と偶然性のカテゴリーの内容の後に、その相関関係に意志という新しい要素との関係で規定しなければならない。本質の領域に自由の問題を持ち出すこと自体、ヘーゲルが必然性と偶然性のカテゴリーを十分に規定することができないことを示している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．これまで述べたところからわかるように、偶然性は現実性の一面的なモメントにすぎず、したがってわれわれはそれを現実性そのものと混同してはならない。しかし偶然性もやはり理念の一形式であるから、それは当然客観的な世界のうちにその位置を持っている。このことはまず自然について言えるのであって、自然の表面には、言わば偶然がほしいままにはびこっている。こうした事実は、このようなところにまでしいて必然を見出そうとしないで(人々はよく哲学はそんな不当な要求をするものだと誤解しているが)あるがままに認めなければならないものである。精神の世界にも偶然が支配していることは、先に意志について述べたとおりであって、意志は、揚棄されたモメントとしてではあるが、恣意という姿をとった偶然をそのうちに含んでいるのである。われわれはまた、精神および精神の活動についても、理性的な認識を求めようとする、意図からすれば正しい努力に誤られて、偶然的な諸現象を必然的なものとして示そうとしたり、先天的に構成しようとしたりしてはならない。例えば、言語というものは、言わば、思惟の肉体ではあるけれども、そこにはやはり偶然もまた決定的な役割をつとめているのであって、法律や芸術、等々の諸形態についても同じことが言える。学問および特に哲学の任務が、偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しい。しかしこのことは、偶然的なものは主観的な表象にのみ属し、したがって真理に達するにはそれを全く除去しなければならない、というような意味に理解されてはならない。一面的にこのような方向をのみ追う学問的努力は、空虚な遊戯であり、融通のきかぬペダンチズムであるという正当な非難をまぬかれることができないであろう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、現実性を偶然性と規定しても必然性と規定しても一面的である、偶然性を必然性だとしてはならないし、必然性を偶然性だとしてはならない。偶然性も重要な意味をもっているし必然性も重要な意味を持っている。&lt;br /&gt;　これは分かり易い説明であるが、偶然性について経験的な規定を並べて実例を付け足しただけで、偶然性というカテゴリーの内容規定ではない。「自然の表面には、言わば偶然がほしいままにはびこっている。」というのは論理として無意味である。自然の表面はという限りは偶然性であると言ってもよいが同語反覆である。実際はすべての現象は偶然的であると同時に必然的である。ヘーゲルの論理では自然の世界における必然性と偶然性の関係を規定することもできない。&lt;br /&gt;　「学問および特に哲学の任務が、偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しい。」というのは、正しくない。これは経験科学の課題である。論理学は、必然性と偶然性というカテゴリーを規定するのであって、偶然性に隠されている必然性を認識するのではないし、偶然性は必然性に隠されて存在するのではない。&lt;br /&gt;　偶然性の後で必然性を展開するヘーゲルの論理の手順では必然性と偶然性の関係を規定することができず、それより後の概念論に属する意志の問題をここで規定することはできない。本質の領域で意志を問題にすること自体論理の未整理を示している。偶然性は必然性より後の段階の論理であるし、自由はさらに後の論理である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-1867226581631563643?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/1867226581631563643/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=1867226581631563643' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1867226581631563643'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/1867226581631563643'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_25.html' title='第二部 本質論 第一四五節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8179956377153718936</id><published>2010-10-20T21:51:00.001+09:00</published><updated>2010-10-20T21:52:21.450+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四四節</title><content type='html'>　第一四四節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．(ロ)しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(一四二節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(一四〇節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である。したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである、そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、可能性から区別された現実性とは、概念から区別された現実存在である。カントにとっては、悟性の形式と一致するものが可能性で、感覚と関連するものが現実性である。ヘーゲルにとっては、感覚と関連する現実存在は、概念＝本質と分離された直接的存在である点で非本質的で偶然的な存在である。直接的存在は概念の外化の契機になる可能性をもっている。概念と現実性が区別されている段階では、概念は可能性であり現実存在は偶然性である。可能性と偶然性は概念と現実存在の関係が深化する過程の一段階である。&lt;br /&gt;　可能性と偶然性が概念と現実存在との関係になるのは思弁哲学の図式である。客観的なカテゴリーの規定ではない。客観的概念はこのような形式では存在しない。概念とはヘーゲルの立場においてもカテゴリー自身の自己展開であるから、前提された概念との関係でカテゴリーを規定することは、規定すべきものを前提することであり無意味である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8179956377153718936?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8179956377153718936/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8179956377153718936' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8179956377153718936'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8179956377153718936'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_20.html' title='第二部 本質論 第一四四節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-3673857303631302706</id><published>2010-10-17T01:05:00.001+09:00</published><updated>2010-10-17T01:06:14.755+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四三節</title><content type='html'>　第一四三節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(一四一節)。(イ)同一性一般としては現実性はまず可能性、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは、カントの経験的思惟一般の公準をそのまま取り入れてカテゴリーを展開している。その上で、カントが第一にあげている可能性のカテゴリーを主観的として否定している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　1　経験の形式的条件(直観および概念に関する)と合致するものは、可能的である。&lt;br /&gt;　2　経験の実質的条件(惑覚)と関連するものは、現実的である。&lt;br /&gt;　3　現実的なものとの関連が、経験の普遍的条件に従って規定されているものは、必然的である(必然的に存在する)。(カント「純粋理性批判」上294頁 岩波文庫)&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルにとって現実性は単なる現実存在ではなくて、本質によって措定されたものであり、本質と現象の具体的な統一である。これに対して、可能性は概念の内部で定立されているだけの、まだ現実存在として定立されていないという意味で、具体化していない抽象的な概念である。&lt;br /&gt;　カントもこの点は同じであるが、カントの場合は可能性は主観における概念の定立である。ヘーゲルは概念は客観的であるとする客観的観念論の立場からカントを批判しているが、客観的観念論の立場であることには意味はない。問題は概念が現実化できるかどうか、概念と現実がどのように関係するか、である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは、概念は現実化することができると考えており、それを概念の定立とは現実化である、と表現している。ヘーゲルの場合、概念は現実化できないことは、概念が抽象的で内的で即自的な規定に止まることを意味している。概念の定立、具体化、外化は概念の現実化である。ただし、ヘーゲルはこのように断定しているだけで、概念と現実の統一を証明しているわけではない。&lt;br /&gt;　可能性は概念に属している点で本質的であるが、現実化していない、現実化することがありうる、という意味を持つにすぎない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■、カントは「これらの規定は客観としての概念を少しも増すものではなく、ただ認識能力への関係を表現するにすぎない」と言って、可能性と現実性と必然とを様態とみたが、カントがそういうことをなしえたのは、おそらく可能性の規定によってである。実際可能性は自己反省という空虚な抽象であり、前に内的なものと呼ばれていたものであるが、ただそれがここでは、揚棄された、単に定立されているにすぎぬ、外在的な、内的なものとして規定されているのである。したがってそれは単なる様態、不十分な抽象物、もっと具体的に言えば、単に主観に属するにすぎないものとして定立されてもいる。現実性と必然性とはこれに反して、他のものにたいする様態であるどころか、まさにその正反対のものであり、単に他によって定立されているのではなく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている。--可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてのものは可能である。というのは、われわれは、抽象によって、どんな内容にでもこうした同一性を与えることができるからである。しかしすべてのものは同様に不可能でもある。というのは、あらゆる内容は具体的なものであるから、われわれはどんな内容においても、その規定性を特定の対立、したがって矛盾と考えることができるからである。--だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない。特に哲学においては、或ることが可能であるとか、また他のことが可能であるとか、あるいはまたよく言われるように、或ることが考えられるとかいうような指摘に言葉を費すべきではない。以上から歴史家もまた、それ自身としてすでに真実でないことが明かになったこのカテゴリーを用うべきではないことがわかるであろう。しかし空虚な悟性の慧眼というものは、可能なこと、しかも実に多くの可能性を、役にも立たないのに、考え出して得々としているものである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、カントでは可能性も現実性も必然性も認識能力との関係を表わすだけで、客観的概念には何もつけくわえない。それは主観による現象の構成である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの客観的観念論の立場においても、可能性は概念内部で規定されているだけで、外化＝現実化していない点でカントの可能性と同じである。カントの可能性は主観の定立で、ヘーゲルの可能性は客観的概念の内部の定立である、という点で違うだけである。&lt;br /&gt;　カントと違ってヘーゲルは現実性と必然性は客観的であり現実的である、としている。概念の規定は現実存在として定立されるものであり、概念は自己を現実化する力を持っている。したがって、概念内部の規定である可能性は、本質的な規定であるにしても現実性を持たない。概念の規定が現実化していない可能性において、概念の規定が現実化できるかどうかを議論するのは無意味である。可能性は概念が現実化するための一契機である。現実化するかどうかは現実の諸条件という他の契機にかかっているから、諸条件との関係において論ずることができる。概念の内部では現実の諸条件を問題にできないのだから、可能性について論ずるのは無意味である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルがカントを超えようとする批判は分かりやすい。ヘーゲルが経験的な意識によって現実を肯定しているだけだからである。ヘーゲルもカントも可能性が現実と分離した概念内部の規定であることを認めている。そのうえで、現実性と必然性が主観的であるというカントの主張は主観的観念論で、ヘーゲルの主張は現実的で唯物論的でさえあるように見える。実際は概念と現実の関係という基本的な規定において、ヘーゲルよりカントが現実的であり唯物論的である。ヘーゲルは現実存在の中にのみ現実性がある、現実の中にこそ概念は実現される、現実の中に概念は存在する、としているだけで、概念の現実性を証明しているわけではない。証明の方法を提示しているのはカントの物自体である。&lt;br /&gt;　カントは、可能性も現実性も必然性も現象の認識であるかぎり主観的であって、客観的な物自体とは関係がないとしている。現象の認識と客観的現実性を分離している。この分離がギリシャ以来の哲学の基本課題であり、この分離においてのみ客観的世界の認識としての主観と客観の一致が形成され、主観の現実化ができるようになる。ヘーゲルは概念の現実化＝外化という図式によって物自体と現象の分離を否定しており、それによって主観が現実化する未知を閉ざしている。その上で概念は現実化する、現実的な概念だけが現実的である、と断定している。&lt;br /&gt;　可能性、現実性、必然性といったカテゴリーは、現象世界だけを規定するだけでは客観的世界に届かない。だから、概念の規定であるカテゴリーは、現象世界における主観的カテゴリーからどのように物自体に関係することができるか、がこの時点での哲学の課題である。ヘーゲルは物自体を現象に解消したから、現象の規定がそのまま現実性であり必然性である。哲学の誕生以来、現象の背後にある、実体＝常住不変のものが何であり、現象とどのようにかかわるかを理解することが課題であった。それはすべての現象を運動として規定するための原理である。物自体と現象の分離を原理としないかぎりは、現象を可能性、現実性、必然性といったどのようなカテゴリーによって規定しても、対象の実体には届かない。物自体がカテゴリーの展開の基礎となるカテゴリーである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　認識論の立場に立つヘーゲルの基本的課題は、概念と現実の一致である。この一致を基本課題にする場合は、概念の外化という逆立ちした形式をもつことができる。現実とは概念が外化したものであるから、概念と現実は一致している、とヘーゲルは主張し、カントはできない、と主張している。&lt;br /&gt;　概念は外化するから概念と現実は一致している、というのは無意味である。概念は客観化すると主観でもあるから主観と同じである。主観と客観の一致とは客観的世界の認識である。だから、主観と客観が一致するかしないか、どのような関係になっているかを問題にすることは無意味である。客観的世界を思惟において規定すれば主観と客観の一致である。だから課題は、客観的世界をどのように規定するかだけである。この課題においては、物自体も現象も客観的存在であり、その客観的存在が物自体と現象の相関関係においてどのように運動しているか、を規定することが課題となる。それができない場合は、現象についての規定は物自体に届かない、実体に届かないという意味で主観的である。だから、現象についての規定は様態にすぎない、というカントの規定は正しい。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　現実世界がバラバラの個別存在の併存である、という前提から出発すると、このバラバラの変化する存在に統一性、規則性を与えるのが概念である。ヘーゲルとカントは、現実の個別存在を概念あるいは主観が統一するという点では同じである。この概念がカントのように主観的であってもヘーゲルのように客観的であっても大した違いはない。現象を統一するのが概念である点で両者とも観念論である。現象の規定、現象の認識に止まることは主観的であるとするカントと、それは客観的で現実的であるとする点に違いがあるにすぎない。&lt;br /&gt;　バラバラの変化する個別存在を統一する客観的な原理が物自体である。統一を概念に求めるのではなく客観的な物自体に求めるのが唯物論である。カントは現象の認識を主観的だとして限界を与え、認識できない対象としての物自体を分離した。ヘーゲルは現象の認識は物自体の認識でもある、として物自体の意義を否定した。しかし、現象の認識を無限に積み重ねても客観的認識にはならない。&lt;br /&gt;　客観的世界の認識は現象と物自体で構成されている。現象の認識は物自体の認識ではない。現象の認識ではとどかない内容が現実世界にはあり、カントはそれを規定できないことを理解した上で、客観的な世界を不可知な物自体として残した。現象の認識だけでは足りないことを明確にしている。主観が現象に規則を与える事では、たとえその規則が現象の客観的な規則であったとしても、この認識は物自体には届かない。主観が現象に与える規則と物自体が現象に与える規則は違ったものであるが、ただどのようなものかは分からない。カントが主張しているのはこのことである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺　表象にとってはまず、可能性は豊かな広い規定であり、現実は、これに反して、貧しく狭い規定であるように思われる。かくして人々は、あらゆることが可能であるが、しかし可能で、あるすべてのことが、必ずしも現実的ではない、と言う。しかし実際には、すなわち、思想から言えば、現実性の方がより包括的なものである。なぜなら、現実性は具体的な思想であるから、可能性を抽象的モメントとしてそのうちに含んでいるからである。こうした考えは、われわれが現実から区別された可能なものについて語る場合、それを可能にすぎないものと呼ぶかぎり、普通の意識のうちにも見出される。--可能とは思惟しうることにある、と一般に言われている。しかしこの場合思惟とは、ある内容を抽象的同一性の形式のうちで把握することとのみ解されている。しかしあらゆる内容がこの形式へもたらされうるし、しかもそうするにはただ、ある内容をそれがそのうちに立っている諸関係から切りはなしさえすればいいのであるから、この上もなく馬鹿らしく不合理なことでも可能と考えることができる。・・人が無知識であればあるほど、すなわち、考察の対象の具体的な諸関係を知ることが少ければ少いほど、あらゆる空虚な可能性の考察に耽りたがるものであって、・・--さらに、あらゆるものが可能であるとみられるのと同じ権利をもって、あらゆるものが不可能とも考えられる。というのは、あらゆる内容は、内容である以上常に具体的なものであるから、単にさまざまな規定を含んでいるにとどまらず、対立的な規定をも自己のうちに含んでいるからである。例えば、私が存在するということほど不可能なことはない。なぜなら、自我は単純な自己関係であるとともに、また他者への関係でもあるからである。自然および精神の世界のその他すべての内容についても、同じことが言える。われわれは、物質というものは不可能であると言うことができる。なぜなら、物質は反撥と牽引との統一だからである。・・或る事柄が可能であるか、不可能であるかは、その内容、すなわち、現実の諸モメントの総体による。そして現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、可能性についてのヘーゲルの批判は雄弁で正確で議論の余地がないし、経験的な意識にとっては非常に有益である。しかし、論理的には可能性についての議論と同じく、可能性についての議論に対するヘーゲルの批判も空論である。&lt;br /&gt;　カントもヘーゲルも、可能性とはまず概念が与えた規則ないし統一性が、無限に多様で変化している現実存在に規則や統一をもたらすことができるかどうか、を問題にしている。第一に概念と現実世界を分離しており、第二に両者の一致を課題にしている。&lt;br /&gt;　この二つの課題は論理学の課題ではない。論理学の課題は客観的世界の一般的な運動法則の規定である。客観的世界における運動法則の規定のためには、客観的世界そのものの二重化、つまり物自体と現象の分離が必要であり、この分離が本質の領域の基本原理である。この分離を主観と客観の分離とするのがギリシャ以来の観念論的な逆立ちである。カントは客観的な分離の原理を規定したが、具体的に規定したのは現象の認識の規則であった。ヘーゲルもやはり観念論の伝統の限界内におり、物自体と現象の分離を原理とすることはできなかった。物自体と現象の分離は唯物論的な弁証法の原理である。主観と客観の分離と統一の課題は論理学の課題ではない。たとえ、主観と客観の関係を、唯物論と観念論の二つの対立する原理においてが哲学史が追求してきたとしても、それは客観的な論理学から外れていくことであり、逆立ちである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-3673857303631302706?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/3673857303631302706/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=3673857303631302706' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/3673857303631302706'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/3673857303631302706'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_17.html' title='第二部 本質論 第一四三節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-7734274086140158426</id><published>2010-10-13T19:20:00.001+09:00</published><updated>2010-10-13T19:21:06.900+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四二節</title><content type='html'>　第一四二節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。&lt;br /&gt;　前には直接的なものの形式として有および現存在があらわれた。有は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、『法の哲学』の序文の「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という命題は有名である。ヘーゲルはこの命題に対する批判に反論して、小論理学の第六節で、「人々はそれについてとやかく言う前に、わたしがどんな意味にそれを用いているかを考えてみるべきであろう。」と書いている。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理では、まず現実存在とは直接的な存在である有および現存在である。この現存在は本質との関係をもたず、他の存在と関係し他の存在へと移行する有限者である。より高度の現実存在は、本質の反映として存在する現象である。さらに高度の存在は本質と現存在との統一が存在として定立されたものである。これがヘーゲルの言う現実的なものである。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理では、本質が現実存在として定立されたものだけが真に現実的である。「偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しない」(第六節)のであるから、現実存在は偶然的な存在と現実的な存在に分けられている。現実性のカテゴリーがこのような意味を持つのであれば、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という命題は無意味な同語反覆である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの論理では、本質はまず内的であって即自的な抽象である。この抽象的な本質は現実化しなければならない。本質は現実化し、現実存在として自己を定立して初めて真実である。したがって、現実存在は本質の外化である現実とそうでない現実の二種類が混在することになる。認識論的な論理においては、どの現実存在が理性的で本質的であるかを認識することが課題となる。これは、経験科学がその学問の対象を他の現実存在との関係から分離して認識する過程を意味しており、ヘーゲルの現実性は、経験科学における個別対象の認識をカテゴリー化したものである。経験科学にとっては、その科学の対象が独自の現実性である。&lt;br /&gt;　哲学の基本的な課題は個別と普遍の一致である。普遍である物自体＝本質と個別存在である現象はどのように一致しているか、という課題において、ヘーゲルは認識論的な論理によって、現象の認識が物自体の認識であり、現象は物自体の規定である、とする。その上で、ヘーゲルは個別と普遍の一致を、概念の外化の運動によって関係させる。物自体が自己を外化し、具体的規定を生み出すことによって個別化し、現実の個別存在と一致することが普遍と個別の統一である。本質が自己を定立して現実存在と一致すると両者の統一が実現され、真の現実性が生れる。&lt;br /&gt;　カントは物自体と現象を分離した。ヘーゲルはこの分離を継承して物自体の外化である現実存在とそうでない現実存在に分離した。ヘーゲルはカントの物自体と現象の分離を、まったくの経験的な意識に解消している。物自体と現象の分離は哲学であるが、現実を本質的な現象と非本質的な現象にわけることは単純な経験的意識である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　有の領域から本質の領域に移行すると本質と現象が分離する。この分離は個別と普遍の分離を意味しており、この分離は無限に発展する。現象は本質の内的な運動形式であって、質の変化としての本質の領域の運動は、この分離の発展であり、それは分離における一致の発展である。この分離によってのみ質的な多様性を運動法則として規定することができる。物自体と現象の分離は質的変化を規定するための基本的カテゴリーである。本質と現象の分離は、本質的な現象と非本質的な現象を区別するためのカテゴリーではない。&lt;br /&gt;　運動の規定としての論理から言えば、本質と現象は分離において常に一致している。現象は本質の内的運動であって、本質的でない現象は存在しない。本質の領域では必然性と偶然性、本質的と非本質的といったカテゴリーが現れる。それはすべて本質の運動形式である。本質の領域で生み出されるすべての規定は本質の運動の規定である。偶然性や非本質性といった運動形式が本質から分離していくのは、本質の運動の発展であり高度化を意味している。ヘーゲルの論理では、運動の形式が高度になり構造化する過程を規定できない。本質は概念として前提されており、必然性はその概念と現実存在の一致にすぎないからである。現実は無限に複雑に発展していくものであって、その発展の過程で必然性と偶然性の対立が生み出される。ヘーゲルの論理では必然性との一致が必然的現実であり、必然性と一致しないものが必然的でない現実である、という同語反覆になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺・・しかし抽象的な悟性が理念と現実という二つの規定をとらえて、その区別を動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの現実の世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合には、われわれはこのような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければならない。なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである。教養のある人々の用語もこれと一致している。例えば、人々は、なんら有能なことも理性的なこともなしとげることのできない詩人や政治家を真の詩人あるいは政治家と認めようとはしないであろう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、理念と現実を絶対的に対立するものとして、理念を主観的として現実を客観的存在とすることは間違いである。理念は主観的といった無力なものではなく活動的で現実化し現実を作り出すものであり、現実は無思想な実際家たちが考えるほど悪くもなければ不合理でもなく、理念が実現されているものである。&lt;br /&gt;　理念についてのこの有名な規定は、ヘーゲルの思想が現実的で唯物論的である側面を示しているように見える。経験的な唯物論にはそのように見えるが実際はこれはヘーゲルの観念論的な逆立ちを意味している。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　理念、理想、思想が現実的でなければならない、理念、理想、思想が主観的で非現実的であっては無意味である、というのは経験的な意識の確信である。この経験的な意識は、哲学史上では認識論的な論理として発展しており、現実と意識の一致を哲学の基本的な課題にしている。ヘーゲルはこの経験的な意識を共有しているために、こうした経験的な唯物論的な側面が表れる。そして、この現実と意識の、客観と主観の一致を、普遍と個別の一致と同一化することがヘーゲルの絶対的観念論の特徴であり、逆立ちである。ヘーゲルにとっては普遍とは概念であり精神であり、絶対的真理とは概念と現実＝客観的世界の一致であり、その一致は概念が自己を外化して現実世界を作り出すことである。概念が自己を外化するのではなく、概念が客観的世界を作り出すのではなく、主観は現実世界を反映する、とすることでヘーゲルの逆立ちを修正し、論理学を足で立たせることはできない。普遍と個別の一致を、精神と客観の一致として捉える事が逆立ちである。したがって、普遍性と個別の一致を客観的世界において規定することがヘーゲルの論理を足で立たせること、弁証法を唯物論化することである。&lt;br /&gt;　主観と客観の一致を認識論的に研究する事は無意味である。思想はたとえ観念論であっても常に現実的であって、現実とは何かを規定している。だから、思想が現実的であり、思想は現実的でなければならず、現実的であるものだけが思想である、というのはいうまでもない同語反覆である。ヘーゲルは概念を前提としている。概念と現実の一致が理念である。概念とは何かと言えば、概念として定立された現実である。現実とは何かと言えば、現実化した概念である。こうした同語反覆になるのは、ヘーゲルが認識論の立場に立つからである。論理学において、主観と客観の一致は問題にならない。客観的世界の具体的規定が論理である。概念の領域においては主観が問題になるが、その場合でも同じである。ヘーゲルは、第十節で「認識する以前に認識しようとするのは、水にはいる前に泳ぎをならおうというスコラ学者の賢明な企てと同じように馬鹿げたことである。」と正しく指摘している。主観と客観がどのように一致しているかを規定することは、この馬鹿げた企てである。&lt;br /&gt;　主観と客観の一致を認識論として追求するのは矛盾の巣窟に陥ることである。この巣窟から抜け出す唯一の方法が、物自体と現象の分離である。ヘーゲルはこの分離の意味を理解しなかった。だから、「認識する以前に認識しようとするのは、水にはいる前に泳ぎをならおうというスコラ学者の賢明な企てと同じように馬鹿げたことである。」という自分自身の正しい指摘を理解することもできなかった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-7734274086140158426?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/7734274086140158426/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=7734274086140158426' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/7734274086140158426'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/7734274086140158426'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_13.html' title='第二部 本質論 第一四二節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-2481792016699997346</id><published>2010-10-12T20:42:00.001+09:00</published><updated>2010-10-12T20:43:20.219+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四一節</title><content type='html'>　第一四一節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．同一の内容をなお相関のうちにひきとどめようとする二つの空虚な抽象物は、互のうちでの直接的な移行のうちで自己を揚棄する。内容はそれ自身両者の同一性にほかならず(一三八節)、両者は本質の仮象が仮象として定立されたものである。力の発現によって内的なものは現存在のうちへ定立される。しかしこの定立は空虚な抽象物による媒介であり、それはそれ自身のうちで消滅して直接態となる。そしてこの直接態においては内的なものと外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有(として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、本質が直接的に抽象的に現実存在と一致したものが、現実性である、という意味である。本来カテゴリーは、本質と現象の矛盾の展開として新たなカテゴリーを生み出していくものであるが、ヘーゲルは本質と現象を分離した上で、この両者の一致に至る過程をカテゴリーとして規定する。本質は現象である。現象は本質である。本質は現象を定立する。本質と現象はまず直接的で抽象的な一致である、等々。ヘーゲルが言う本質と現象の一致は認識の発展を意味しており、本質と現象の一致とは認識が対象を本質的に捉えるという意味である。それは無限の過程であるから、認識の段階を規定することがカテゴリーの内容になり、ここでは現象を抽象的に本質との一致として認識している段階、という意味である。認識の段階は経験的な意識によっても理解できるからわかりやすい。しかし、認識の過程はそのままでは論理にならない。この逆立ちを修正して客観的な運動法則に加工しなければならない。&lt;br /&gt;　ここでも揚棄は無意味である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-2481792016699997346?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/2481792016699997346/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=2481792016699997346' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2481792016699997346'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2481792016699997346'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_12.html' title='第二部 本質論 第一四一節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-6489495017235307281</id><published>2010-10-10T20:44:00.002+09:00</published><updated>2010-10-10T20:44:57.586+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一四〇節</title><content type='html'>　第一四〇節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである。しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、内的なもの＝自己同一性と、外的なもの＝多様性、はそれぞれが抽象物で互いに直接的な外的な関係にある。両者は二重化されているが、内と外が分離して関係しているのではなく、二つの側面という意味を持つだけである。したがって、内は外であり、外は内である。形式的な分離に過ぎず、内容は同じである。&lt;br /&gt;　内的なものと外的なものは抽象的な規定であるから、内的は精神、意図、外的は実在だとか実践だとか、いろいろな使い方ができる。ヘーゲルはその上にさらに、内的なものを即自的なもので外的なものをその外化という関係を取り込んでいる。この場合でも、内的なものは外的になって初めて表れるのであり、内的なものは外的なものとして規定されるのであるから、内的なものは外的なものと同じである、ということになる。こうしたカテゴリーはすべて物自体と現象の同一性を内容としている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　補遺の全体は、雄弁で的確で分かりやすい指摘である。しかし、これは経験的な内容であり教訓であって、論理的な内容を持つものではない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-6489495017235307281?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/6489495017235307281/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=6489495017235307281' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/6489495017235307281'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/6489495017235307281'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_10.html' title='第二部 本質論 第一四〇節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-6543317340761570511</id><published>2010-10-09T21:11:00.001+09:00</published><updated>2010-10-09T21:12:06.783+09:00</updated><title type='text'>第二部 本質論 第一三九節</title><content type='html'>　第一三九節&lt;br /&gt;　■．したがってまず第一に、外的なものは内的なものと同じ内容である。内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある。現象が示すものはすべて本質のうちにあり、本質のうちにあるものはすべて顕現されている。★(p73)&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルの認識論的な論理は、物自体、本質、力、内なるもの、等々を認識対象としている。この論理においては、これらの対象の規定＝認識は、現象、発現、外なるもの、等々となり、両者は規定とその担い手の関係において分離しており同一である。こうして、物自体、本質、力、内なるもの、を現象の規定に解消することが真理である。&lt;br /&gt;　論理学においては物自体は認識対象ではなく、運動の一般的規定の一契機である。物自体と現象は相関関係において運動を規定するのであって、物自体が現象に解消されることはない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-6543317340761570511?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/6543317340761570511/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=6543317340761570511' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/6543317340761570511'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/6543317340761570511'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_09.html' title='第二部 本質論 第一三九節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-2308619401653750635</id><published>2010-10-08T21:03:00.001+09:00</published><updated>2010-10-08T21:04:43.242+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一三八節</title><content type='html'>　第一三八節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．(ハ)　内的なものは、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なものとして対立している。内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、内的なものと外的なものは、本質と現象の関係をもっとも抽象的で形式的に規定した経験的なカテゴリーである。力とその発現も本質と現象の分離を反映した経験的なカテゴリーである。だから、本質と現象の関係を規定すればこうしたカテゴリーは必要なくなる。&lt;br /&gt;　規定の抽象性から言えば、内的なものと外的なもの、力とその発現、内容と形式、が正しい順番である。ヘーゲルは認識論的であるから、順序が逆になっている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-2308619401653750635?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/2308619401653750635/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=2308619401653750635' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2308619401653750635'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/2308619401653750635'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_08.html' title='第二部 本質論 第一三八節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-5999842172494231120.post-8143861796162667804</id><published>2010-10-07T18:49:00.001+09:00</published><updated>2010-10-07T18:50:43.730+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='小論理学'/><title type='text'>第二部 本質論 第一三六節</title><content type='html'>第一三六節&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、直接的な無思想の相関というのは、概念を媒介としない、概念との一致を含まない相関という意味である。全体と部分は媒介を持たない直接的な対立的関係であるから、全体にとっては部分は非本質的であり、部分にとっては全体が非本質的である。媒介を持たない直接的関係は、機械的な外的な関係である。&lt;br /&gt;　ヘーゲルはここで、われわれは全体と部分をどのように考えるか、使うか、と書いている。論理学のカテゴリーは、われわれの考え方を規定するものではない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、物質の可分性に関する無限進行は、粒子という存在形式の運動の規定であって、実際に物質がどのような存在形式を持つかという自然科学の課題とは別の問題である。この経験科学と論理学の区別ができないと論理は際限なく混乱する。&lt;br /&gt;　全体と部分のカテゴリーは、量のカテゴリーとして無限分割という運動をする。部分の集合が全体である。したがって、部分はある量をもっている。量を持たない部分がいくら集合しても全体にならない。部分がある量を持つのであれば、それ自身が全体であり、部分から構成されていることになる。これが無限分割の進行である。&lt;br /&gt;　物質が粒子から構成されている集合だと想定して、物質の存在形式を全体と部分の運動として規定すると、無限分割の矛盾が生ずる。この無限分割は、現実の物質がどこまで分割され、分割によってどのようになるか、という自然科学の課題とはまったく別の、粒子という存在形式の運動形態を反映するカテゴリーの運動である。だから、この全体と部分のカテゴリーを物質の全体的な存在形式に適用するのは認識主観の間違いである。このカテゴリーは現象と現象の関係を反映したカテゴリーであって、自然科学が未発達な段階では、物質を均質な粒子の集合と想定しているために物質全体の構造を規定するカテゴリーであると考えられた。本質の領域のカテゴリーの構造がまったく発見されていない場合は、こうした量のカテゴリーがあらゆる運動形態に適用される。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　この無限進行を否定的なものと解すると、つまり全体を部分が否定し、その部分を全体が否定する自己否定と見ると、この無限進行は全体と部分の両者を否定していく力の発現形態となる。&lt;br /&gt;　全体と部分のカテゴリーを物質の無限分割に適用して、物質が無限に分割されるものであり、逆の方向において自己否定によって自己を発現するものである、として、それを力とその発現のカテゴリーに結びつけるのは思弁的な図式である。このあと、力と誘発の関係を述べた上で、力は「絶対的に規定されている概念や目的ではない。」と書いている。思弁的な論理の構造においてであっても、本質の領域が絶対的であるはずがない。こうした規定はカテゴリーの内容規定にならない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　力は未規定の運動の想定である。現象をある力が表に出たものであると想定する場合、力と現象は同じになる。力の規定が現象となる、という直接的で単純な関係である。この単純なカテゴリーは自然科学での仮定としては使えるが、本質の領域のカテゴリーとしての意味はない。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは力のカテゴリーについて、総体性でないとか、有限だとか、まだ絶対的に規定されていないとか内容と形式が真に同一でない、と否定的に規定しており、次の段落でさらにこのカテゴリーの有効性を否定している。このカテゴリーは運動の規定ではなく、運動を規定できない場合の運動の想定である。だから、運動の規定である論理学には必要のないカテゴリーである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■、補遺一　力とその発現との相関は、全体と部分とのような直接的な相関にくらべれば、無限なものとみることができる。というのは、全体と部分との相関においてはようやく潜在的にのみ存在していた、二つの側面の同一性が、ここでは定立されているからである。全体は諸部分から成るが、分割されると全体ではなくなる。これに反して力は、発現することによってはじめて力であることを示し、また、発現それ自身が再び力であるから、発現のうちで自分自身へ帰る。しかしこの相関もやはり有限であり、そしてその有限性は次のような媒介性にある(全体と部分との相関は、これとは逆に、直接性のために有限であったが)。まず、力と発現という媒介された相関の有限性は、どの力も制約されていて、その存立のために自己以外のものを必要とする点に示されている。例えば、磁気は、誰も知っているように、特に鉄をその担い手として持っており、そして鉄のその他の諸性質(色、比重、酸類との関係、等々)は、こうした磁気との関係から独立的である。その他あらゆる力も同様であって、それらはすべて自分以外の他のものに制約され媒介されている。--さらに、力が有限であることは、発現するために誘発を必要とする点に示されている。力を誘発するものは、それ自身再び或る力の発現であって、それが発現するには同じく誘発されなければならない。このようにしてわれわれは再び、誘発と誘発されることの無限進行あるいは交互性をうるが、いずれにせよここにはまだ運動の絶対的なはじまりが欠けている。力はまだ、目的のように、自分自身のうちで自分を規定するものではない。力の内容は規定されて★(p69)与えられたものであり、力が発現する場合、よく言われているように、その作用は盲目である。そしてこの言葉は、抽象的な力の発現が目的活動と異っていることを意味するのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、ヘーゲルは自然科学で生れたばかりの力のカテゴリーを論理学にそのまま取り込んでいる。これは論理ではなく現象の説明である。経験科学のカテゴリーをそのまま論理学に取り入れた上で、それは有限であり、自己規定する概念とは違う、としている。こうしたカテゴリーは自然科学に任せておけばいいのであって、経験科学の内容をすべて哲学が包摂すると考えること自体が間違いである。ヘーゲルは経験科学と哲学＝論理学を分離していないためにこうした混乱が起こる。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの言う意味は次のようなことである。&lt;br /&gt;　力とその発現は全体と部分といった直接的で分離的な関係に比べると無限的である。力と発現は両者の違いと同時に同一性が定立されている。力と発現は同一であり、力は発現によって力であり、発現自身が力であり、力と発現を独立的なものとして分離することはできない。&lt;br /&gt;　しかし、力と発現は有限である。力は存立のために自分以外のものを必要としている。力は何ものかの力でありなにものかとの関係において力が発現する。自己自身において成立し、自己自身において現象を作りだしていく概念とは違う。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルは論理学と経験科学のカテゴリーを分離していないためにこうした余計な説明が必要になる。経験科学は個別存在を対象にしているから、その対象の運動の規定が有限であるのは当然である。経験科学は無限的な運動そのものを研究対象にすることはない。経験科学の内容はその有限性に特徴があり意義がある。経験科学のカテゴリーに概念性を求めるのは見当違いである。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは認識論の立場にたつから、経験科学が生み出した有力なカテゴリーをすべて論理学の内容として取り込もうとしている。そしてそのカテゴリーの限界を明らかにしている。だから、力と発現といったカテゴリーを使うことに対する批判としてはヘーゲルの指摘は有益である。しかし、積極的な内容の規定としての意義はない。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　■．補遺二　認識できるのは力の発現にすぎず、力そのものは認識できないものであるという、非常にしばしば繰返される主張は、根拠のない主張である。なぜなら、力とはまさに発現するものにほかならず、したがってわれわれは、法則として把握された発現の総体のうちに、同時に力そのものを認識するからである。しかしてこの場合みのがしてならないのは、力そのものが認識できないという主張には、この相関が有限だという正しい予感が含まれているということである。力の個々の発現は種々様々であり、また個別的であるから、それらはわれわれにまず偶然的なものとしてあらわれてくる。われわれは次にこの多様なものを、われわれが力と名づける内的な統一に還元する。そして、それらのうちにある法則を認識することによって、一見偶然とみえるものを必然的なものとして意識する。ところが、個々の力そのものがまたさまざまのものであって、それらの単なる並存においては偶然的なものとしてあらわれる。かくしてわれわれは、経験的物理学では重力、磁力、電気力、等々について語り、また同じく経験的心理学では記憶力、想像力、意志力、その他あらゆる心的な力について語る。この場合再び、さまざまな力を一つの全体として意識しようとする要求が起ってくる。しかしこの要求は、さまざまのカがそれらに共通な一つの原力というようなものに還元されたとしても、やはり満足させられないであろう。それは抽象的な物自体と同じように無内容な、空虚な抽象物にすぎないであろう。その上、力とその発現は本質的に媒介された相関であるから、力を根源的なもの、すなわち自己にのみ依存するものとみるのは、力の概念に矛盾する。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　▽、これはカントの物自体に対する批判と同じで、ヘーゲル論理学の基本的構造である。この基本構造があるために弁証法的論理の規定ができなくなる。&lt;br /&gt;　力は発現する。力の具体的な内容は発現である。力は個別の力の発現であるから有限である。個別的な力と他の個別的な力の相関によって両者を発現形態とする同一的な力が発見されたとしてもなお有限である。この関係が発展してつぎつぎに同一的な力に到達しても、力そのものは無規定な抽象にすぎない。&lt;br /&gt;　自然科学は個別の現象の内容を規定しつつ、未知の本質を力と名付ける。自然科学が未発達であるほど力の数は多くなる。そして、さまざまな力の内容が具体的に規定されていくと、或る力と他の力の同一性に到達する。客観的世界はそのような構造になっている。だから、自然科学の発展とともに力の数は少なくなる。さまざまな力が共通な一つの原力というようなものに還元されることは、力自体は無内容な抽象物であるとしても、さまざまな力が一つの未知の同一性へと集約されるから、力は原理的な力にまで無限に深まっていく。&lt;br /&gt;　個別の運動の同一性を認識して、さらに他の運動との同一性にまで到達していく過程が自然科学の発展である。客観的な運動の分化過程を逆にたどって認識は深化する。したがって、自然の運動のすべての一般的原理に到達すれば、力のすべてが規定され、空虚な抽象であることがこの時点で終わり、力と現象の同一性が実現される。ヘーゲルの認識論的論理学ではこのようになる。&lt;br /&gt;　ところが、力は現象であると同時に現象ではない。力が現象と同じである側面で言えば、現象の認識は力の認識である。ところが、力は現象の総体であり、諸現象の否定であり、諸現象の内的な運動の原理であるから、現象は無限の多様性と相関関係の展開であり、この展開が停止することはない。だから、力が認識され尽くされる終点はない。力は無限的に現象として展開しつづけるから、つねに未知の無規定の、新しく生み出されるべき規定が残る。これは全体と部分の無限分割と同じである。&lt;br /&gt;　これは要するに現実認識は無限に発展する、と言っているにすぎない。ヘーゲルは物自体や力を存在の規定の担い手としている。だから、現象あるいは発現は物自体や力の具体的規定になる。これは、経験科学における本質と現象の関係である。内的必然的の規定が明らかでない場合に、現象間の関係の背後に物自体や力を想定する。この規定においては、物自体や力も現象の背後にあるから認識できない。しかし、現象を深く認識することは無限に物自体や力に近づくことである。この無限の過程において対象は認識され、それが物自体あるいは力そのものの認識となる。これは絶対的真理と相対的真理の関係である。絶対的真理は相対的真理の無限の発展において実現される、というのが物自体についてのヘーゲルの認識論的な規定である。&lt;br /&gt;　しかし、物自体と現象のこのような関係は、論理学における本質と現象の関係ではない。この無限進行は経験科学の認識の運動形式である。客観的な運動の一般的規定である論理学のカテゴリーはこのように進行しない。論理学で言えばこの運動形式は有の領域で規定される運動の一般的規定に属する。物自体と現象の関係は本質の領域の運動形式を規定するカテゴリーであり、これとはまったく別の運動形式をとる。&lt;br /&gt;　論理学においては、物自体という同一性は現象や発現の担い手ではない。だから現象や発現を認識することが物自体の認識になるのではない。ヘーゲルは認識論的な立場から、本質と現象を全体としてどのように認識するかを課題にしているために、物自体と現象は単純な対立関係になり、物自体や本質や力を、つまり現象の背後の実体という形式のカテゴリーを解消する。これは経験科学の認識方法である。&lt;br /&gt;　物自体と現象、あるいは本質と現象が運動のカテゴリーとしてどのような相関において展開していくかは後に問題になる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　第一三七節&lt;br /&gt;　特にない。&lt;br /&gt;　カテゴリーの揚棄を規定する節はたいてい無内容である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/5999842172494231120-8143861796162667804?l=m-akamine.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://m-akamine.blogspot.com/feeds/8143861796162667804/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=5999842172494231120&amp;postID=8143861796162667804' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8143861796162667804'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/5999842172494231120/posts/default/8143861796162667804'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://m-akamine.blogspot.com/2010/10/blog-post_07.html' title='第二部 本質論 第一三六節'/><author><name>AKAMINE</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10615014038662339563</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image 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