2011年2月13日日曜日

第三部 概念論 第二〇四節

 二〇四節
 
 ■.目的とは、直接的な客観性の否定によって自由な現存在へはいった、向自的に存在する概念である。目的は主観的なものとして規定されている。というのは、上述の否定は最初は抽象的であり、したがって最初は客観性もまた単に対立しているからである。こうした主観性という規定性は、しかし、概念の統体性とくらべると一面的であり、しかも目的そのものにたいしても一面的である。なぜなら、目的のうちには、あらゆる規定性が、揚棄されたものとして、定立されているからである。したがって目的にとっても、前提されている客観は観念的な、本来空無な実在にすぎない。目的は、そのうちに定立されている否定と対立とにたいするその自己同一の矛盾であるから、それ自身揚棄であり、対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する活動である。これが目的の実現であって、そのうちで、目的はその主観性の他者になり、自己を客観化することによって、両者の区別を揚棄し、もって自己を自分自身とのみ連結し、自己を保存しているのである。
 
 ▽、目的のカテゴリーの内容は必然性と偶然性のカテゴリーに含まれている。目的のカテゴリーは経験的な意識から取り出されたもので、必然性と偶然性のカテゴリーが十分に規定されていないために生き残っているだけである。目的のカテゴリーは論理学には必要ない。だから、ヘーゲルの考え方を簡単に紹介しておくことにする。
 
 目的は直接的な客観性を否定して自我にまで到達した概念のことである。目的は主観的である。主観的とは、主観が客観と対立しており、抽象的な否定に止まるという意味である。この意味で主観的な目的はまずは一面的である。
 主観的概念が定立する目的は、主観から客観への移行の第一歩である。目的が客観を否定して自己化することが目的の実現であり主観と客観の一致である。
 
 以上は、人間の目的意識的な実践のことを言っている。広くは、動物が客観の何かを食べる生命活動をも含んでいる。特に複雑な内容を含んでいる訳ではない。
 
 ■.目的という概念は、一方では余計なものとされているが、他方では正当にも理性的概念と呼ばれて、特殊にたいして包摂的にのみ関係し特殊をそれ自身のうちに持っていない悟性の抽象的普遍に対立させられている。--さらに目的原因としての目的と単なる作用原因、すなわち普通に原因と呼ばれている原因との区別はきわめて重要である。原因はまだ顕示されていない盲目的な必然に属する。だからそれは、その他者へ移行し、被措定有のうちでその本源性を失うものとしてあらわれる。原因が結果のうちではじめて原因であり、自己へ復帰するということは、単に潜在的なことがらにすぎない。言いかえれば、われわれがそれを見出さなければならないものにすぎない。目的はこれに反して、それ自身のうちに規定性を含んでいるもの、言いかえれば、因果関係のうちではまだ別なものとしてあらわれているところの結果を含んでいるものとして定立されている。したがって目的は、その作用のうちで他のものへ移行することなく、自己を保持する。すなわち、目的は自分自身をのみ結果するものであって、終りにおいてはじめの、すなわち、本来の姿を保っている。こうした自己保持によってはじめて、真に本源的なものは存在するのである。--目的は思弁的に理解されなければならない。というのは、それは、諸規定の統一および観念性のうちに本源的分割あるいは否定、すなわち主観的なものと客観的なものとの対立を含みながら、同時にまたその揚棄でもあるところの概念であるからである。
 
 ▽、作用因は因果関係である。目的は結果を意識する主観と客観の関係である。この関係では目的が原因になる。主観と客観の関係は、本質の領域より複雑な高度のカテゴリーを内容とする。必然性と偶然性の関係をより複雑にした客観と自我との関係を目的意識との関係に解消するのは余計な単純化である。因果関係である作用因との対立的カテゴリーとして規定することにすでに目的のカテゴリーの限界が現れている。この問題に限れば結果として規定するのが合理的である。
 
 ■.人々は目的という言葉によって直ちに、あるいは単に、表象のうちにある一つの規定としてそれが意識のうちに存在する形式を考えてはならない。内的な目的性という概念によって、カントは、理念一般、特に生命という理念を再びよびさましたのである。生命にかんするアリストテレスの規定は、すでに内的な目的性を含んでおり、したがってそれは、有限な、外的な目的性をのみ考えている近世の目的論の概念よりも、限りなく高い立場に立っている。
 
 ▽、すべての生命に独自の内的目的がある、ということは必然性として規定すればよい。生命の内的目的と外界との関係は必然性と偶然性の関係である。
 したがって、内的目的というカテゴリーは余計なカテゴリーである。内的目的と外的目的、あるいは内的目的と外的関係を対立させても、内的目的そのものの規定は出てこない。内的目的は外的目的ではない、と規定されることによって、必然性が規定されなくなる。内的目的というカテゴリーは、必然性と偶然性の関係の一面を抽象的、形式的に規定したものである。だから、必然性と偶然性の関係を規定すれば内的目的というカテゴリーは必要なくなる。外的な目的性より内的な目的性が限りなく高い立場である、というのは空虚な形式規定である。
 
 ■.欲求、衝動は目的の最も手近な例である。それらは、生きた主体自身の内部でおこる矛盾が感じられたものであり、まだ主観的なものにすぎないこの否定性を否定しようとする活動へ移っていく。満足は主観と客観とのあいだに平和を作りだすが、これは、矛盾がなお存在しているかぎり、欲求の彼方に立っている客観を主観と合一させ、その一面性を揚棄することによって行われるのである。--有限なものが不変であり克服できないと主張し、主観的なものはあくまで主観的であり、客観的なものはあくまで客観的であると主張する人々は、あらゆる衝動のうちに、全く反対の実例を見出すわけである。衝動とは、主観的なものは一面的であって、客観的なものと同様になんらの真理をも持たないという確信であると言うことができよう。しかもそれはさらにこの確信の遂行であって、それは、あくまで主観的なものにすぎない主観的なもの、およびあくまで客観的なものにすぎない客観的なもの、という対立および有限性を揚棄するにいたるのである。
 
 ▽、欲求、衝動は生きた主体の必然性である。この必然性と外的な事物の必然性の関係は、必然性と必然性の関係、つまり生きた主体に即して言えば、必然性と偶然性の関係である。
 
 ■.目的活動についてさらに注意すべきことは、目的活動は実現の手段を通じて目的をそれ自身と連結するという推理であるが、この推理においては本質的に三つの項の否定が見出されるということである。この否定は上述の、目的そのもののうちに見出される直接的な主観性および直接的な客観性(これはさらに手段と前提された客観とから成る)の否定にほかならない。それは、精神が世界の有限な諸事物や個人的な主観性を去って神へまで高まるときに行われるのと同じ否定である。このモメントが、序論及び一九二節にも述べたように、いわゆる神の存在の証明のうちでこの高揚に与えられる悟性推理の形式においては、看過され除去されているのである。
 
 ▽、目的を実現するためには、手段が必要である、ということ。つまり、主観が客観に働きかける場合に手段を媒介する、ということである。

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