一九〇節
▽、推理の形式は、経験的な意識における個と普遍、あるいは普遍と普遍の関係の規定である。ヘーゲルの抽象的で分かりにくい説明を、分かりやすく経験的な形式に変えておくことにする。
反省の推理には三つの推理がある。全称推理(演繹)と、帰納推理と、類推、である。
(1)全称推理は、普遍--特殊--個の関係である。例えば、
「すべての人間は死すべきものである、ガイウスは人間である、ゆえにカイウスは死すべきものである」、
全称推理の大前提=普遍は、すべての個の規定である。「すべて」という言葉は直接的な個を表現している。だから大前提は、カイウスは死すべきものである、という結論を含んでいる。こうした推理は無意味な形式主義である。
この推理は認識論として形式主義である。論理学にはこんな問題は存在しない。論理学は「すべて」というカテゴリーを規定する学問である。すべての人間が死ぬかどうか、カイウスが死ぬかどうか、は経験科学の課題である。
(2)帰納推理は、全称推理の欠陥を訂正する。帰納推理は、「すべての人間は死すべきものである」という全称推理の大前提を媒介によって導きだす。例えば、
「金、銀、銅、鉛等々は金属である、これらの物体は電導体である、ゆえにすべて金属は電導体である」。
帰納推理は全称推理とは逆に、個別の金属が電導体であることを媒介にして、すべての金属は電導体である、という普遍を導き出している。しかし、
この推論にも欠陥がある。個別の金属が電導体であることを経験的に知ることができても、すべての個を経験し尽くすことはできない。したがって、個別についての経験からすべてを推論するのは飛躍である。個別の並列は全体ではない。個別の無限の系列を尽くすことはできないからである。
こうしたことは、論理学においては、全体と部分の関係として規定される。金、銀、銅、鉛等々の系烈がどのようなものであるかは経験科学の課題である。
全称推理と帰納推理との関係の展開においては、普遍の規定の転化が起こる。金属が普遍で電導体であることが共通の属性である、という規定は経験的な意識による普遍の規定の出発点である。自然科学の発展によって、電導体であることが内的な普遍の規定になる。しかし、金属は電導体である、という規定も、伝導体は金属である、という規定も、つまり推論の形式一般が限界を持っている。普遍が運動しているにもかかわらず、普遍の運動を規定していないからである。
(3)類推は、帰納推理の欠陥を訂正している。例えば、
「人々はこれまでにあらゆる遊星においてこうした運動法則を見出した。ゆえに新しく発見される遊星も、おそらく同じ法則にしたがって運動するであろう」
ヘーゲルはこの類推について、
「類推においては、一定の類に属する事物が一定の性質を持つということから、同じ類に属する他の事物もまた同じ性質を持つことが推理される。」とした上で、類推によって経験科学は重要な成果を達成した、と指摘し、さらに「類推は理性の本能であって、それは、経験的に見出される個々の規定が事物の内的な本性あるいは類にもとづいていることを予感させるものであり、さらにこの上に立脚しているのである。」と書いている。
帰納推理と類推は同じである。一定の類に属する事物が一定の性質を持つことにおいて、他の事物を同じ類として類推することは、普遍の認識過程である。一定の類に属する事物が一定の性質を持つことにおいて類であることが規定される。その類の限界は、一定の類に属する事物が、一定の性質を持たない事物に遭遇することによって規定される。そこに類の限界が現れ、新しい類の規定がはじまる。これが経験科学における普遍の規定の一般的な方法である。だから、「類推は理性の本質である」ということができる。類推は対象を普遍のもとに包摂することであり、普遍の規定だからである。
この場合、全称推理(演繹)と帰納推理の関係で見たように、演繹と帰納は相互に移行する。類推においても同様で、経験的な個別によって普遍を類推すると同時に、普遍によって個別の規定を類推している。一般に対象の規定とは対象の普遍の規定であるから、個と普遍の一致である。だから、演繹と帰納の同時的進行、あるいは演繹と帰納の一致が対象の規定であり、普遍性の規定である。
このような普遍性の規定は経験科学の普遍性の形成過程である。論理学はこの過程とは逆の過程をたどる。
ヘーゲルは推理の種類を認識の発展形式として捉えている。この場合発展の規定は形式的規定になり、個と普遍の関係の展開として規定することはできない。そのために、
「地球は天体であって生物が住んでいる、月も天体である、ゆえに月にもまた生物が住んでいるであろう。」という類推や、
「カイウスという人間は学者である、ティトゥスもまた人間である、ゆえにかれもまた学者であろう」という類推を拙劣な類推の実例としている。
拙劣な類推、というのは稚拙な批判である。
地球は天体である、という場合の天体は地球と月その他の普遍である。天体という普遍のもとで地球に生物が住む現象が起きているのなら、月も天体という同じ普遍のもとで生物が住む現象が起きているであろう、と類推することができる。このような類推によって認識は発展する。
自然科学の発展によって、月には生物が住んでいないことが明かになると、生物との関係では天体という普遍の上にさらに普遍が必要になる。天体に生命が存在すると類推される限りにおいては、天体は生命にとっての普遍である。天体以外にも生命が存在することが明かになれば天体は生物が住むための普遍ではなくなる。生命が天体にのみ存在するなら天体は生命にとっての第一の普遍である。しかし、天体である月に生命が存在しないのであれば、生命にとっては地球と月の普遍である天体の内部におけるより限定された、つまり具体的な普遍が必要である。その普遍は、天体という普遍の内部で、地球と月の違いによって類推されて規定することができる。この類推は新しい天体の観察によってより具体的に規定される。
生物は天体に存在する。生物が存在するためには天体であることの他に多くの条件=普遍が必要である。どのような条件が必要であるかは、天体という普遍のもとで天体と天体を比較をすることで明かになる。生物が存在するためにどのような条件が必要であるか、つまり生命の具体的な普遍はまだ明かになっていない。
「カイウスという人間は学者である、ティトゥスもまた人間である、ゆえにかれもまた学者であろう」という類推は、すべての人間が学者ではないことが経験的に明かだから拙劣である。「地球は天体であって生物が住んでいる、月も天体である、ゆえに月にもまた生物が住んでいるであろう」という類推は、すべての天体に生物が存在するのではないことが明かになることで拙劣になる。
類推が拙劣になるのは、より具体的な普遍が規定されて、その具体的普遍によってこの類推が超えられ、否定されたことを意味している。天体という普遍が生物の存在にとっての直接的な普遍ではないことが分かるまではこの類推は拙劣ではない。
地球と月が天体であること、と生物を結びつける普遍がどのような系統をなしているかはまだ分からない。人間でなければ学者にはなれない。人間であることは学者であることの普遍である。しかし、抽象的な普遍であって具体的な普遍ではない。人間という普遍と学者という普遍の間にはさまざまの普遍が入り込む。この規定が普遍の具体化である。また、この普遍を規定し固定するのが悟性の役割である。だから、このような普遍は悟性的普遍である。
論理学は、類推において規定されている普遍を運動体として規定する。だから、推理は認識の運動である。論理的な運動ではない。
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