一八一節
■.推理は概念と判断との統一である。それは、さまざまの判断形式が単純な同一性へ復帰したものとしては概念であり、概念が同時に実在性のうちへ、すなわち概念のさまざまな規定のうちへ定立されているかぎりでは判断である。理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である。
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--しかし推理は、本節に示されたように、定立された(まず形式的に)、実在的な概念にほかならないから、推理はあらゆる真実なものの本質的な根拠である。そこで今や絶対者の定義は、それが推理であるということ、命題として言いあらわせば、「すべてのものは推理である」ということである。すべてのものは概念であり、概念の定有は概念の諸モメントの区別である。すなわち、概念の普遍性は特殊性を通じて自己に外的実在を与え、これによって、また否定的な自己内反省として、自己を個とするのである。これを逆に言えば、現実的なものは特殊を通じて自己を普遍へ高め、そして自己を自己と同一とするところの個である。--現実的なものは一つのものであるが、しかし概念の諸モメントはまた分離してもいる。推理はその諸モメントを媒介する円運動であり、これによって現実的なものは一つのものとして定立される。
▽、推理の説明にも論理学としての積極的な意義はない。ヘーゲルに特有の体系を理解する側面から簡単に説明しておけば十分だろう。
ヘーゲルの体系は概念が外化して現実存在と自我を作り出す。判断とは抽象的な概念と現実存在へと外化した概念の同一性の規定である。つまり、判断は現実存在である主語と抽象的な普遍である述語の直接的な同一性である。推理は、この両者の間に特殊が媒介として入る。普遍と特殊と個別の三つの要素が同一性として定立されている。抽象的概念が外化して規定を獲得して再び全体を統一するとそれが具体的な定立された概念である。
ヘーゲルにとって理性とは普遍と特殊と個の統一である。これは主観と客観の統一をも意味している。ヘーゲルは、主観と客観の一致、個と普遍の一致というこの近代哲学の基本課題を解決するために、概念の客観的な展開と主観の認識過程を同一の過程として展開している。主観的概念は、客観性概念の運動の内部にあり、同じ運動をしているから、理性は現実的であり理性は概念の現実的な定立である。そして、推理は普遍と特殊と個別の統一であるから、理性的なものは推理である。
概念は自己を分化して自己に外在的実在を与え、さらに外在的実在は反省する自我としての個に到達する。これが概念の客観的展開である。そして、この形成された主観的概念=自我が客観的概念と一致する過程が認識の過程である。自我=主観的概念は現実的実在を媒介にしてその背後の普遍を認識して自己を普遍に高めることによって、主観的概念を客観的概念は一致する。こうして客観的な概念は自己を外化して主観的概念に高めることで自己と一致する円運動を描く。この構造においてヘーゲルの体系は、概念の客観的運動と主観的概念の運動が一つの運動になっている。
客観的な概念の運動と認識の運動の同一化をヘーゲルの弱点とする批判があるが、ヘーゲルの論理構造はすっきりしており、混乱というほどのものではない。ただし、客観的運動の過程を逆にたどる認識の過程は論理の展開としては不必要である。また、客観的な運動を、概念が普遍と特殊と個に分離してそれを再び同一化する過程だとするのはあまりにも単純で論理の過程を構成しない。個と普遍の同一性、主観と客観の同一性を規定するには、ヘーゲルが客観的概念の過程としている純粋有から出発する論理学の全体が必要である。だから、普遍と特殊と個の同一性を抽象的に規定することには論理的な意味はない。普遍と特殊と個の同一性の主張は、普遍の運動の規定ではないからである。全体を一体とする、というのは運動の規定ではない。全体の同一性は運動の展開によってのみ規定できる。
一八二節
■.直接的推理は、概念の諸規定が抽象的なものとして相互に単なる外的関係のうちに立っている推理であり、したがって二つの端項は個と普遍とであるが、両者を結合する中間項としての概念も同じく抽象的な特殊にすぎない。そのために二つの端項は相互的にも、またその中間項にたいしても無関係的にそれだけで存立しているものとして定立されている。この推理はしたがって、概念を欠いたものとしての理性的なもの、すなわち形式的な悟性推理である。
この推理においては、主語は自分とは別な一つの規定性と結合される。あるいは逆に言えば、普遍はこの媒介を通じて自己に外的な主語を包摂する。これに反して理性的な推理は、主語が媒介を通じて自己を自分自身と結合するということである。かくしてはじめてそれは主語となるのであり、あるいは、かくしてはじめて主語はそれ自身に即して理性推理となるのである。
▽、ヘーゲルは常に抽象的=直接的関係から、具体的=媒介的関係へと進む。推理は普遍と特殊と個の関係を規定している。直接的推理は、普遍と特殊と個のそれぞれが抽象的で、相互に外的に関係している。普遍と特殊と個が抽象的で直接的な関係にある場合、悟性推理である。普遍と特殊と個が内的関係にある場合理性推理である。
ヘーゲルは、普遍と特殊と個の関係が抽象的関係から具体的な規定的な関係へと進展する、としているだけである。こうした進展では論理的な関係は現れない。
補遺の終わりに、
「例えば、自由を必然の抽象的な対立とみるのは、自由の単なる悟性概念であるが、これに反して自由の真実な理性的な概念は、必然を揚棄されたものとして内に含んでいる。」と書いている。
自由を必然性の抽象的な対立と見るのは間違いであるが、自由は必然性と対立していることにおいて自由であり、対立が大きいほど自由も大きい。だから、まず自由は必然性との対立において規定される。しかし、ある必然性が自由と規定される限りは、対立する必然性との関係に入り込んだ独自の必然性を意味しているから、必然性と対立する自由は必然性内部の必然性である。この両者の関係を規定することが自由と必然性のそれぞれのカテゴリーの規定である。だから、自由と必然性を抽象的な対立と見るべきではなく、「自由の概念は必然性を揚棄したものとして内に含んでいる」としたところで自由と必然の関係の運動を規定できているわけではない。このような抽象的な規定は、ヘーゲルがまだ自由と必然性の関係を規定できていないことを示している。ヘーゲルは、外的な抽象的な関係を批判して、内的な関係を対置している。ヘーゲルがこうした形式的な批判をするのは、内的な関係を具体的に規定できない場合である。
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