2008年12月26日

第三版への序文

 第二版の後半は、多く宗教について書いている。宗教に関連した文章からもヘーゲルらしい論理を取り出す事はできるし、単純化されていて分かりやすいところもある。しかし、宗教に関係するだけ余計な内容を含んでいるし、宗教と関わりのない論理の部分で同じ事を理解するほうが合理的なので、宗教に関係する文章は問題にしないことにする。
 第二版の序文でスピノザ主義について述べているところは難しくて、ここで内容に触れる事はできない。はっきりしているのは、ヘーゲルが強調しているのは同一哲学との区別で、実体をどのように考えるかである。実体を主体および精神と規定することが思弁哲学の特徴で、主体と考えるとは、「統一をどう規定するかに関係している。」同一哲学の規定では、善悪の区別はなくなる。しかし、実体を主体と考える場合は、この実体自身は善でもなく悪でもなく、善悪の区別を持たないが、この実体が分裂して善と悪の対立を生み出すと言う意味で、実体は善悪の対立を含み対立を統一していることになる。これはこれまでに繰り返し述べている、内容は生み出され導出されねばならない、ということと同じ内容である。
 統一というのは、実体が矛盾を内包しており、対立物を生み出して自己の発展の契機とし、内容とすることである。これだけが実体の具体的内容である。だから、主体として規定されていないスピノザの実体を批判的に問題にする場合でも、スピノザがその対立の具体相を展開している部分を研究したのちでなないと、スピノザの実体について論ずる資格はない。
 
 第三版の序文は、第一、第二版の序文と同じ内容を、実体や論理そのものの内容としてではなく、主観の形式に関係して説明している。
 学問的導出としての内容を持たない場合は、馬鹿らしく浅薄で無知で、不確かで、空虚で、知識は外的な博識となる。内容の導出という労苦を知らず、内容の具体化、拡張に進むことができずに主観的な確信に止まる場合、その内容は高慢と人を貶めることになる。
 また、信仰心という主観の形式にしがみついている連中に対する悟性的啓蒙の批判も、形式的な、抽象的な、無内容な思惟になる。彼等もまた、信仰心に訴える事と同じで、良心の自由、思惟の自由、教授の自由等々を形式的に振り回すのみで、その自由がどのような内容を持つかを規定しようとしない。
 哲学は、個人的な憎悪や人身攻撃や空虚な一般論の対立といった喧騒とは別の世界にある。個人のこうした主観的な要求とは別に、個人よりも一層強い内的必然としての理性の衝動というものがあり、その内的必然にしたがって認識をすることこそが至福であり、善のうちでも最善である。哲学は具体的な認識の内に沈潜するものである。

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